約10年前に書いた批評論

 現在、慢性的な構造不況が伝えられる文学という制度にかかわるものたちは
何ができるのだろうか。昨年から、浅田彰柄谷行人が編集する理論雑誌第
III期『批評空間』は書き手たちを中心にした共同組合的な組織が運営する批
評空間社が発行する雑誌としてスタートした。そして、新しい『批評空間』に
も書いてきた鎌田哲哉西部忠らが、新メンバーともに、『重力』という雑誌
を刊行した。この雑誌は文芸批評、小説、現代詩、映画、経済学などに携わる
メンバー自らが編集し、DTPを使って、そして、『重力』[*1]の編集委員たち自
らが、出版にかかる諸経費を出し合って刊行したものだ。

 80年代以後、複数のジャンルをアクチュアルに編集するエディター的な才能
が積極的に評価されるようになったが、同時に、作家・批評家の「芸能人」化
が進行した。『重力』に掲載された古井由吉に対する編集者側のインタビュー
において、古井由吉も、こうした事情について触れて、中上健次以後の世代は、
すでに、「文士」ではなく「タレントなのだ」と言っているし、鎌田哲哉は中
上健次以後の力のある作家や柄谷、蓮實などの批評家は、意識的に「芸能人」
であることを肯定していると考えている。

 バブルが崩壊して以降、新しく文芸ジャーナリズムの分野から、「芸能人」
としてデビューすることが著しく困難になった。あるいは、その「芸能人」化
が、文芸の「読むことや」「書くこと」に歪みを作り出してしまっている状況
にある。すなわち、消費的娯楽商品=エンターテイメントとしての性格が書か
れる内容や水準をあらかじめ規定してしまい緻密な論理的・実証的な成果が生
まれにくくなっている。例えば、批評的な感性を持った「純文学」系「芸能人」
として判断されるだろう高橋源一郎は、積極的に、自己のスキャンダルを演出
しているようにも見える。彼は、私生活の一部を切り売りし、また、時代的な
風俗を取りこんで創作に反映させることで、読者の劣情にも訴えながら、作品
を織り込んで、売るための市場戦略を意識的に作り出し、日本文学というイメ
ージ=フィクションのなかで、自己の位置づけを再構成しようとしているよう
に読めるのである。

 創刊号の編集長を担当することになった鎌田哲哉は、《経済的自立は、精神
的自立の必要条件である》というテーゼに固執し、《学問、芸術、宗教、政治、
その他どんな偉そうな領域の事柄の場合でも、この命題の真理性が変わること
は永久にない》と言う。このテーゼは、文芸ジャーナリズムの「歪み」に対し
てまず、解釈学的な「言葉」ではなく、「実践」として応えて行こうとする試
みに他ならず、マルクスが「世界を解釈することではなく、それを変更するこ
とである」とテーゼ化したことに木霊するものである。実際、《経済的自立は、
精神的自立の必要条件である》とは、《存在が意識を規定する》というマルク
スの唯物論的なテーゼのバリエーションなのだ。重力編集委員たちは、自らが
プロデューサーを兼ねることで、商業主義的な資本から自立しようとしている
わけである。この商業主義的な資本からの離脱は、III期『批評空間』と同じ
く、『重力』も地域貨幣Qを含めた総合的な運動として展開されつつあるよう
だ。

 記号流通の側面から、III期『批評空間』を眺めたとき、それまでなかった
試みとして、蓮實重彦が映画時評を書き、糸圭秀美が文芸時評を掲載している
ことが目に付くだろう。すでに、中上賞の計画が語られているように、『批評
空間』は今までよりもより一層、文芸ジャーナリズムのディスクールを自覚的
に、いわば、「企業」戦略として構成しようとしているようだ。蓮實重彦や糸
圭秀美によって書かれた時評は、映画や小説や評論や「文壇」なり「映画業
界」の最新の状況をいち早く報告し、論評するものである。私たちは、これを
読んで普段は読むことのない文芸誌の状況や作家たちの新刊書のイメージを思
い浮かべることができるようになる。

 一般に、「時評」は、文芸の消費者たちに、書店に陳列された文芸商品や各
地の映画館で上映される映画に関する具体的なイメージを提供する。そうした
「時評」などを通じて、文芸商品に関するイメージが構成され、数多くの読み
手が、そうしたディスクールの内部で自己と「文学」の関係をイメージしなが
ら、「文学」という制度のなかで自分の分身たちが言祝いでいくのを見守り、
あるいは、自らの嗜好に沿って作品を消費していくことになる。いわば、「文
芸時評」とは、文学を定期的に蘇らせる儀式めいたものなのであり、「時評家」
たちは、時代をそれなりに表象し、アクチュアルな「売れる」ものを書かざる
を得ない作家=巫女たちの裁神のようにな存在となっている。言い換えると、
「時評家」たちは、「文学(文壇)」として制度化されたディスクールにおい
て読者の分身として「観念の私小説」(中村光夫)を書いているわけである。
だが、こうした「時評」は本来の批評の役割として期待されているものからは
程遠いものであることは明らかだ。

 だから、現在「日本」において、批評を可能にするディスクールを考えると
き、やはり、小林秀雄という固有名のままわりに記号が焦点化されてくるよう
だ。『重力』に鎌田は、小林秀雄に関する評論をII期『批評空間』24号に続い
て発表している。山城むつみ以来の傾向なのだが、鎌田哲哉は、バフチンなど
の解釈基準に照らして失敗作だとされることが多かった後期の「ドストエフス
キーノオト」に小林秀雄の批評性が最も現れていると考えている。鎌田哲哉が、
小林秀雄論に積む賭け金は極めて大きなものである。「ドストエフスキー・ノ
ートの諸問題」が提起するのは、鎌田が冒頭でアルチュセールの『資本論を読
む』のいわゆる「兆候的読解」を引用しながら語っているように「ドストエフ
スキー・ノート」を「読むこと=書くことの展開が地盤自体の切断と変更を同
時に」出来させることである。こうして、後期小林秀雄の「ドストエフスキー
ノート」は、キルケゴールフロイトをはじめとした批評理論が出遭い、従来
江藤淳柄谷行人から山城むつみらの読解が再審に付される舞台となるのだ。
《むしろその読みを通じて我々を読むのは、小林のノートの側なのだ。》『重
力』p298鎌田はノートの解読を通じて、「読むこと」「書くこと」「驚き」
「出遭い」などの批評を構成する基本的な述語を小林秀雄エクリチュール
内在する「躓き」「分裂」「記述のジグザク」において、唯物論的実践として
変更しようとする。「経済的自立は、精神的自立の必要条件」であるという鎌
田のテーゼが批評=読みという行為そのもののを可能にする唯物論的なエコノ
ミーにも貫徹されようとしていることを読み取ることができよう。

 一方、蓮實重彦は、2月に発表された「批評とその信用」『批評の創造性』
岩波書店)において初期小林秀雄を論じて、文芸ジャーナリズムという消費
社会の登場を意識して書いた「様々なる意匠」に焦点化する。蓮實は、小林の
批評が、同時代の誰よりも深くボードレールを読み込んだという自信と強度の
体験に貫かれて、同時代の批評家や作家の意匠=通俗となった言葉に対して至
るところで「信用しない」という言葉を投げかけるときに露呈していると考え
ている。蓮實は、「信用」「意匠」「魔術」というタームを使って論じて行く
のだが、『様々なる意匠』の書き手にとって、《「言葉」は、人間の振る舞い
に社会的な実践性を保証する公共の制度にほかならず、それを個々人に保証し
た代償として、個体を個体たらしめている生きた論理というべきものを個々人
から奪ってしまう厄介な代物》として理解されている。すなわち、蓮實は、消
費社会が登場して以後の書き手である小林秀雄が、読解の強度に貫かれつつ、
やたらなことでは「信用しない」と様々な解釈に対して啖呵を切り、《熱気を
おびた誘いであるかにみえて、実は醒め切った不実な手招きを世に送り出す》
という「魔術」的意匠となった解釈コードを脱神話化する批評的言説の効果に
注目しているのである。蓮實は、『私小説論』の小林が「ボヴァリー・夫人は
私である」というテーゼを私小説に比してみせて、「社会化された私」という
テーゼを取りだしてくるとき、小林自身が笑劇として『様々な意匠』の一つに
成り下がって「批評家小林秀雄も終わった信じます」とアイロニカルに批評家
・小林の身振りを反復しながら語るのである。

 蓮實重彦の視線から鎌田哲哉を眺めるとき、鎌田哲哉自身は、蓮實重彦を含
めた批評から相続放棄を行おうとしているのに、鎌田の論考は、例えば、その
「後期様式」という未だ「意匠」に収まりやすい構図を唯物論的に鍛え、消費
社会的な流通制度においていかに「機能」させるかというレベルでは発展途上
だという印象がある。だが、鎌田哲哉の小林論は、蓮實の熱気を帯びたながら、
実は醒めた不実な手招きとしての小林論が持っている読者を「書く」ことへ誘
うよりも幻滅へと導く身振りから脱出し、読むこと=書くこととしての唯物論
的実践を開こうとはしているのだ。実際、書かれたものとしての蓮實のエッセ
イは、脱神話化する存在としての自己への「信」を誘発するという意味におい
鎌田哲哉のそれよりも、「観念化」された側面があるといえよう。

 《どれほど逆説的にみえようとも、人間の文化史のなかで、われわれの時代
は、きわめて劇的で労苦に満ちた試練、つまり見る、聞く、話す、読むという
生存の最も「単純」な身振りの発見と学習によって際立つ時代であったといつ
かは見なされるだろう》とアルチュセールは『資本論を読む』で語っている。
バブル崩壊以後の信用制度の混乱と経済不況は、言葉の混乱や政治言語の不実
の露呈となり、食肉業界や雪印が露呈しているようにラベルの張替えという
「意匠」の偽装すら行う状況にある。この時代に、自らプロデューサーや編集
者の役割をかねて、読むこと=書くことを唯物論的に実践しようとする『重
力』の試みは、そのマイナーな性格と唯物論的な衝動に貫かれているがゆえに
アクチュアルなものとなっている。なぜなら、アルチュセールのテーゼは、意
匠ではなく、個々人の身体が引き受けるべきマイナーな実践[*2]として取り戻
されるときのみ機能するからである。

[*1]大杉重男鎌田哲哉西部忠らの「重力編集会議」によって
『重力』(青山出版社)が刊行された。
[*2]本稿では、LETSや地域貨幣Qの試みについてはほとんど触れることが出来
なかった。