約10年前に書いた批評論

 現在、慢性的な構造不況が伝えられる文学という制度にかかわるものたちは
何ができるのだろうか。昨年から、浅田彰柄谷行人が編集する理論雑誌第
III期『批評空間』は書き手たちを中心にした共同組合的な組織が運営する批
評空間社が発行する雑誌としてスタートした。そして、新しい『批評空間』に
も書いてきた鎌田哲哉西部忠らが、新メンバーともに、『重力』という雑誌
を刊行した。この雑誌は文芸批評、小説、現代詩、映画、経済学などに携わる
メンバー自らが編集し、DTPを使って、そして、『重力』[*1]の編集委員たち自
らが、出版にかかる諸経費を出し合って刊行したものだ。

 80年代以後、複数のジャンルをアクチュアルに編集するエディター的な才能
が積極的に評価されるようになったが、同時に、作家・批評家の「芸能人」化
が進行した。『重力』に掲載された古井由吉に対する編集者側のインタビュー
において、古井由吉も、こうした事情について触れて、中上健次以後の世代は、
すでに、「文士」ではなく「タレントなのだ」と言っているし、鎌田哲哉は中
上健次以後の力のある作家や柄谷、蓮實などの批評家は、意識的に「芸能人」
であることを肯定していると考えている。

 バブルが崩壊して以降、新しく文芸ジャーナリズムの分野から、「芸能人」
としてデビューすることが著しく困難になった。あるいは、その「芸能人」化
が、文芸の「読むことや」「書くこと」に歪みを作り出してしまっている状況
にある。すなわち、消費的娯楽商品=エンターテイメントとしての性格が書か
れる内容や水準をあらかじめ規定してしまい緻密な論理的・実証的な成果が生
まれにくくなっている。例えば、批評的な感性を持った「純文学」系「芸能人」
として判断されるだろう高橋源一郎は、積極的に、自己のスキャンダルを演出
しているようにも見える。彼は、私生活の一部を切り売りし、また、時代的な
風俗を取りこんで創作に反映させることで、読者の劣情にも訴えながら、作品
を織り込んで、売るための市場戦略を意識的に作り出し、日本文学というイメ
ージ=フィクションのなかで、自己の位置づけを再構成しようとしているよう
に読めるのである。

 創刊号の編集長を担当することになった鎌田哲哉は、《経済的自立は、精神
的自立の必要条件である》というテーゼに固執し、《学問、芸術、宗教、政治、
その他どんな偉そうな領域の事柄の場合でも、この命題の真理性が変わること
は永久にない》と言う。このテーゼは、文芸ジャーナリズムの「歪み」に対し
てまず、解釈学的な「言葉」ではなく、「実践」として応えて行こうとする試
みに他ならず、マルクスが「世界を解釈することではなく、それを変更するこ
とである」とテーゼ化したことに木霊するものである。実際、《経済的自立は、
精神的自立の必要条件である》とは、《存在が意識を規定する》というマルク
スの唯物論的なテーゼのバリエーションなのだ。重力編集委員たちは、自らが
プロデューサーを兼ねることで、商業主義的な資本から自立しようとしている
わけである。この商業主義的な資本からの離脱は、III期『批評空間』と同じ
く、『重力』も地域貨幣Qを含めた総合的な運動として展開されつつあるよう
だ。

 記号流通の側面から、III期『批評空間』を眺めたとき、それまでなかった
試みとして、蓮實重彦が映画時評を書き、糸圭秀美が文芸時評を掲載している
ことが目に付くだろう。すでに、中上賞の計画が語られているように、『批評
空間』は今までよりもより一層、文芸ジャーナリズムのディスクールを自覚的
に、いわば、「企業」戦略として構成しようとしているようだ。蓮實重彦や糸
圭秀美によって書かれた時評は、映画や小説や評論や「文壇」なり「映画業
界」の最新の状況をいち早く報告し、論評するものである。私たちは、これを
読んで普段は読むことのない文芸誌の状況や作家たちの新刊書のイメージを思
い浮かべることができるようになる。

 一般に、「時評」は、文芸の消費者たちに、書店に陳列された文芸商品や各
地の映画館で上映される映画に関する具体的なイメージを提供する。そうした
「時評」などを通じて、文芸商品に関するイメージが構成され、数多くの読み
手が、そうしたディスクールの内部で自己と「文学」の関係をイメージしなが
ら、「文学」という制度のなかで自分の分身たちが言祝いでいくのを見守り、
あるいは、自らの嗜好に沿って作品を消費していくことになる。いわば、「文
芸時評」とは、文学を定期的に蘇らせる儀式めいたものなのであり、「時評家」
たちは、時代をそれなりに表象し、アクチュアルな「売れる」ものを書かざる
を得ない作家=巫女たちの裁神のようにな存在となっている。言い換えると、
「時評家」たちは、「文学(文壇)」として制度化されたディスクールにおい
て読者の分身として「観念の私小説」(中村光夫)を書いているわけである。
だが、こうした「時評」は本来の批評の役割として期待されているものからは
程遠いものであることは明らかだ。

 だから、現在「日本」において、批評を可能にするディスクールを考えると
き、やはり、小林秀雄という固有名のままわりに記号が焦点化されてくるよう
だ。『重力』に鎌田は、小林秀雄に関する評論をII期『批評空間』24号に続い
て発表している。山城むつみ以来の傾向なのだが、鎌田哲哉は、バフチンなど
の解釈基準に照らして失敗作だとされることが多かった後期の「ドストエフス
キーノオト」に小林秀雄の批評性が最も現れていると考えている。鎌田哲哉が、
小林秀雄論に積む賭け金は極めて大きなものである。「ドストエフスキー・ノ
ートの諸問題」が提起するのは、鎌田が冒頭でアルチュセールの『資本論を読
む』のいわゆる「兆候的読解」を引用しながら語っているように「ドストエフ
スキー・ノート」を「読むこと=書くことの展開が地盤自体の切断と変更を同
時に」出来させることである。こうして、後期小林秀雄の「ドストエフスキー
ノート」は、キルケゴールフロイトをはじめとした批評理論が出遭い、従来
江藤淳柄谷行人から山城むつみらの読解が再審に付される舞台となるのだ。
《むしろその読みを通じて我々を読むのは、小林のノートの側なのだ。》『重
力』p298鎌田はノートの解読を通じて、「読むこと」「書くこと」「驚き」
「出遭い」などの批評を構成する基本的な述語を小林秀雄エクリチュール
内在する「躓き」「分裂」「記述のジグザク」において、唯物論的実践として
変更しようとする。「経済的自立は、精神的自立の必要条件」であるという鎌
田のテーゼが批評=読みという行為そのもののを可能にする唯物論的なエコノ
ミーにも貫徹されようとしていることを読み取ることができよう。

 一方、蓮實重彦は、2月に発表された「批評とその信用」『批評の創造性』
岩波書店)において初期小林秀雄を論じて、文芸ジャーナリズムという消費
社会の登場を意識して書いた「様々なる意匠」に焦点化する。蓮實は、小林の
批評が、同時代の誰よりも深くボードレールを読み込んだという自信と強度の
体験に貫かれて、同時代の批評家や作家の意匠=通俗となった言葉に対して至
るところで「信用しない」という言葉を投げかけるときに露呈していると考え
ている。蓮實は、「信用」「意匠」「魔術」というタームを使って論じて行く
のだが、『様々なる意匠』の書き手にとって、《「言葉」は、人間の振る舞い
に社会的な実践性を保証する公共の制度にほかならず、それを個々人に保証し
た代償として、個体を個体たらしめている生きた論理というべきものを個々人
から奪ってしまう厄介な代物》として理解されている。すなわち、蓮實は、消
費社会が登場して以後の書き手である小林秀雄が、読解の強度に貫かれつつ、
やたらなことでは「信用しない」と様々な解釈に対して啖呵を切り、《熱気を
おびた誘いであるかにみえて、実は醒め切った不実な手招きを世に送り出す》
という「魔術」的意匠となった解釈コードを脱神話化する批評的言説の効果に
注目しているのである。蓮實は、『私小説論』の小林が「ボヴァリー・夫人は
私である」というテーゼを私小説に比してみせて、「社会化された私」という
テーゼを取りだしてくるとき、小林自身が笑劇として『様々な意匠』の一つに
成り下がって「批評家小林秀雄も終わった信じます」とアイロニカルに批評家
・小林の身振りを反復しながら語るのである。

 蓮實重彦の視線から鎌田哲哉を眺めるとき、鎌田哲哉自身は、蓮實重彦を含
めた批評から相続放棄を行おうとしているのに、鎌田の論考は、例えば、その
「後期様式」という未だ「意匠」に収まりやすい構図を唯物論的に鍛え、消費
社会的な流通制度においていかに「機能」させるかというレベルでは発展途上
だという印象がある。だが、鎌田哲哉の小林論は、蓮實の熱気を帯びたながら、
実は醒めた不実な手招きとしての小林論が持っている読者を「書く」ことへ誘
うよりも幻滅へと導く身振りから脱出し、読むこと=書くこととしての唯物論
的実践を開こうとはしているのだ。実際、書かれたものとしての蓮實のエッセ
イは、脱神話化する存在としての自己への「信」を誘発するという意味におい
鎌田哲哉のそれよりも、「観念化」された側面があるといえよう。

 《どれほど逆説的にみえようとも、人間の文化史のなかで、われわれの時代
は、きわめて劇的で労苦に満ちた試練、つまり見る、聞く、話す、読むという
生存の最も「単純」な身振りの発見と学習によって際立つ時代であったといつ
かは見なされるだろう》とアルチュセールは『資本論を読む』で語っている。
バブル崩壊以後の信用制度の混乱と経済不況は、言葉の混乱や政治言語の不実
の露呈となり、食肉業界や雪印が露呈しているようにラベルの張替えという
「意匠」の偽装すら行う状況にある。この時代に、自らプロデューサーや編集
者の役割をかねて、読むこと=書くことを唯物論的に実践しようとする『重
力』の試みは、そのマイナーな性格と唯物論的な衝動に貫かれているがゆえに
アクチュアルなものとなっている。なぜなら、アルチュセールのテーゼは、意
匠ではなく、個々人の身体が引き受けるべきマイナーな実践[*2]として取り戻
されるときのみ機能するからである。

[*1]大杉重男鎌田哲哉西部忠らの「重力編集会議」によって
『重力』(青山出版社)が刊行された。
[*2]本稿では、LETSや地域貨幣Qの試みについてはほとんど触れることが出来
なかった。

何度目かのその度ごとの歴史の終わり

何度目かの「歴史の終わり」って言う言い方が最近よく見かけるようになった。
「歴史の終わり」はいろんな人がいろんな言い方で言っているのだけど、イデオロギー闘争の歴史や体制選択の時代が終わって、歴史のなかに技術的な進歩とかを除いて変化がもうなくなった時代を言う。

ここ20年くらいでは、「歴史の終わり」で有名になったのは、アメリカの戦略論の研究家や政府ブレーンのフランシス・フクヤマである。ベストセラーになったので知っている人もいるかも知れない。そこでは、東欧や社会主義の崩壊の後、西側の自由主義陣営がイデオロギー闘争に勝利して、歴史が終わりを迎えたというのだ。

歴史の終わりは、哲学者のヘーゲルに由来する考え方で、命を賭けて民族が自分の覇権を争う歴史が終わりを迎えた、ということに由来する。当時、ナポレオンがヨーロッパに自由をもたらすのをみて彼がそういう風に考えたのだ。それをコジェーブというフクヤマの師匠の師匠が第二次大戦後の世界をそういう風に感じ取った。日本的スノビズムというのもコジェーブに由来する考えで、日本は、戦国時代で近代を迎えて、それ以後は、体制選択の戦争もなく、武士も刀を持っているが、儀礼的なものになったしまった、という事で彼は、日本においては江戸時代から歴史は終わっていると考えていた。

最近、目にするようになった歴史は、水野和夫が言っているような内容のものだ。三菱UFJ証券エコノミストの彼は、資本主義が終わりに近づいていると言う。資本主義とは言うまでもなく、我々の時代、我々の体制のことだ。資本主義という言葉が良くないが、資本主義とは、労働者が自由に自分の労働を売り、また、資本家が自由に投資をして、企業が経済の中心で社会を引っ張り、そこでは、資本蓄積への意志が社会の支配的な原動力になっている社会のことだと理解すれば良いだろう。
だいたい、現代の企業の会計や株主総会では、企業の実績と利益が報告されるではないか。そういう社会のことを資本制社会と言う。

資本主義の終わりなんて、これまた多くの人が言ってきた事だ。けれど、その言い方がまるで違う。マルクスは、歴史が資本家と労働者の二大階級に分裂して、それらが自由を求めて争うような階級闘争の歴史を考えた。マルクスというか、彼らの名前に連なる人たちは資本主義の傾向的利潤率の低下の法則を語り、資本家の利潤が歴史のなかで平準化されていき資本蓄積のために労働者を絞り上げ、で、彼らの生活を圧迫していくと説いた。で、労働者たちが団結するときがやってくる。「万国の労働者団結せよ!」とマルクスエンゲルス共産主義者宣言に書いた。実際、それは、ソ連や中国で実証されたのだからたいしたもんだ。日本にもまだ共産党という党が存在しているけど、彼らは本質的にそういう歴史観を持っている。というか持たねば嘘だ。日本共産党マルクスおじさんが言っている事は大分、違うけれど、まぁ、そんなことはココではどうでもよろしい。
けれど、シュンペーターというオーストリアの経済学者さんは、資本主義はマルクスたちが考えたようには終わらないって考えた。彼は、イノヴェーションが存在して、技術革新が経済の創造的破壊を行って、次々に企業が登場するので、傾向的利潤率の低下は起こらず、資本主義はまだまだ続くと考えた。
実際、ケネディ政権の頃のアメリカのブレーンたちは、労働者たちの福祉を向上させないとソ連みたいな国になってしまうぞって強欲な資本家たちを脅して、累進課税を強化して、年金や社会福祉を充実させた。その時代のエリート企業が、フォードとかGMとか、クライスラーのような企業だ。今、ビックスリー苦しんでいるのは、その頃にあがった年金や社会保障と長寿化が背景にある。その一方で、科学技術が進歩と豊かさをもたらすって考えてた。アメリカの企業たちはこぞって、技術革新を行って、社会に創造的破壊をもたらせる一方で、労働者の生活を向上させてきた。
けれど、シュンペーター叔父さんは、資本主義はその成功ゆえに、終わりを迎えるだろうって言ったのだった。すなわち、資本主義はその創造的破壊をエンジンにして経済成長するが、巨大な企業集団を構成し、それは巨大な官僚機構を作り出す。官僚たちは、経済成長の低下とともに、そうした経済成長よりも、社会福祉や経済の安定に心を砕くようになり、資本蓄積の社会としての資本主義は、やがて、社会主義と同義に変化するというのだ。

さて、現代。
アメリカは、いつしかITと金融の国になってしまった。自分の経済力以上の消費をする。前FRBグリーンスパンは、金融中心の経済を考えた。彼のシナリオを思いっきり単純化して言えば、こうなる。強いドルを背景に世界中からお金を集める。そして、1億円のお金を集めて、7000万円消費して、3000万の投資によって1億円以上の利益を得るような経済を考えた。すなわち、第三世界等への資本投資によって稼ぎ倒す方法を彼らは考えたのである。20年の真っ暗闇の日本にいると気がつかないけれど、アメリカ経済は、この20年くらいは好景気だった(今は不景気だけど日本と同じかそれよりマシかも)。

資本主義的蓄積の条件は、資本そのものの存在である。すなわち、資本投資の利潤=利子が存在することである。

けど、サブプライムの破綻とかの問題を指摘するまでもなく、資本投資には新しいフロンティアが必要である。もう、資本投資とその回収率が良い国なんて、中国とインドとベトナムとかそういう国への投資しか残っていない。後、20年もすればそれも枯渇するだろう。

すなわち、資本主義は、投資先を失って、過剰蓄積により、お金の行き場所がなくなって、死に至るというのだ。つまりそれは、熱力学におけるエントロピーの増大に似ている事から、資本主義の「熱的死」とも言える。

水野和夫はそういう背景で資本主義の終わり(正確には「大きな物語の終わり」)を掲げて、著作を書き倒して、民主党のブレーンになった。彼は現代はポスト近代の時代に突入しているという。日本のプライムレートは、1.5%とかそこらだけど、国債の利子率とかを見ていても、下がりすぎていて、すでに、資本利子と呼べるような水準にない、という。すなわち、資本主義は、その低利率から判断できるように、すでに、投資先を失っており、蓄積体制は崩壊を始めている。日本の不景気は、経済が飽和点に達して成長経済を示すものだ、というのだ。

一方で、資本の利潤率の低下を労務費の圧縮で補ったり、競争を激化させて、生活を不安定にさせることでチャレンジの名の下に経済を活性化させようという傾向も存在している。彼らは、水野さんの言葉によれば、「資本の反革命」を起こしているのだし、実際、新自由主義者たちの規制緩和政策とはそんなもんだ。競争への強迫社会は、けれど、限界がやってくる。だって、みんなそんなに追い立てられないんだもん。神経症になるし、限界もやってくる。次世代を生み育てる環境も破壊してしまうから、出生率も下がる。

大企業の時代の終わり

モジュール化とネットワークを前提とするイノベーションの時代において、大企業という枠組みってもう古いというしかない。

かつて、トラストやコンツェルンの形態をとって、企業集団を形成して、トップダウンで資源配分を行っていく構造が効率的であった時代があった。
だが、その時でさえ、問題は、意志決定がトップダウンでなされることではなく、下からの合意形成によって経営がなされていたので、効率的とはいえなかった。
トラストやコンツェルンを形成する理由はトランザクションコスト(取引費用)を下げる事が可能であるからだ。日本の系列企業間は、基本契約が前提としてあって、個別契約は簡単な文面で発注するだけで可能だったりもする。基本契約がなければ、同業他社の存在を前提とした入札を前提としてプロジェクトを進めなくてはならず、契約を結ぶ場合でさえ、法務や経営層の合意の下でのその都度の契約書を取り交わす必要が出てくる。有り体にいって、時間がかかるのだ。
そこまで苦労したとしても、出来上がってくる成果物の品質や安定供給に都度都度のばらつきがあって、その都度、リスクを抱え込まざるをえない。

そうした理由で、かつて、フォードだったり、GMだったりは巨大化したのだし、トヨタだって、下請けを叩き上げる事で大成功を収めた。

だが、今は、こうした系列組織の運営自体にコストがかかる。何故なら、経済は、安定高成長の時代から、不安定な低成長の時代に移行したからだ。経済の牽引力は、イノベーションとなり、内需がそれを支える時代となった。

例えば、NTTドコモでさえ、親NTTよりも規模も大きければ収益構造も良いのだ。そしてさらに、給与体系もドコモの方が上という不思議な構造を持っている。

すなわち、たった10年や20年の時間でその時代の基軸産業や基軸企業集団が変わっていく時代となったところが、かつてのトラストやコンツェルンが機能不全に陥っている理由がある。そこで生じているのは、人間の人生を80年とした場合、労働力として機能するのは、40年であって、10年でイノベーションが生じるとすれば4回も人生をやり直す必要があるということだ。だが、人間には老化があり、高度なスキルを取得できる年齢には限りがあるということが問題を作り出す。

結果としてどうなるかと言えば、企業集団内部での労働者、組合組織、そして、中間経営層たちの保守化という事態だ。将棋や囲碁の世界から、スポーツ選手たち、作家たち、映画監督たち、音楽家、美術家などのアーティストの世界、そしてアカデミックな世界、どこでも良いが、本当のトップランナーたちは数十年単位で、トップランナーだ。スポーツ選手たちは、体力の衰えもあるが、そのプレイヤーである時間の限り、トップであり続ける。

もちろん、その年に最も優秀だった人たちというのは存在し、相対的に強いトップは良く入れ替わるのだ。すなわち、トップを超一流とした場合、超一流は超なので、時間を超えて存在する一方で、普通の一流クラスはかなり入れ替わる。数年単位でごろっとメンバが入れ替わる事が多いのだ。かつて、巨人のV9の時代や西武の黄金時代は、例外で、その間、ほとんど超一流はもちろん、主要メンバが入れ替わらなかったところに特徴がある。

企業でもこれと同じ事が生じてしまう。トップたちは、構想力、リーダシップ、才能、実力、カリスマ性、熱意、精神力、人格、外見、家庭生活全てにおいて総合力で勝負して勝っている事が多いが、経営トップとは異なる中間層リーダたちは、人生のなかで何度も浮き沈みをするし、入れ替わりもする。普通のメンバにいたっては尚更だ。担当として優秀でも、数年間、その立場が変わらなければ腐ってしまうのが普通だろう。

ここに問題がある。今までの日本の企業では、数年間の短い時代で、組織平行移動を繰り返す事で人間たちの人生の入れ替わりをコントロールし、リスクを管理して、組織を維持運営してきた。だが、イノベーションの速度は、こうした人事管理の仕組みを危機に陥れる。すなわち、平行移動する組織が数年後にはなくなる可能性が高いのだ。イノベーションや時代の変化に対して、緩やかなソフトランディングが不可能にある。もし、ソフトランディングをしようとするものなら、世界市場から閉め出されてしまう。

かつて、20年前、手書きで仕事をしている部署にワープロを導入することは不可能であった。ワープロを導入すれば、今まで5人でやってきたことが1人で済むようになり、その人たちの行き場がなくなる、というのが、行政や企業で問題になっていた。だから、コンピュータ化を進めない、というわけだ。これに近い事が、今でも、企業で起こっている。

ではどうなるか。全体的な賃金を切り詰めて、過剰人員のロスを吸収するしかない。当然、投資に回すべきお金が小さくなる。 賃金が安ければ内需も小さくなる。そして、同じような商品やデフレ的な産業が華やかに隆盛をきたす。停滞する平準化の時代の到来と言って良いだろう。
こうした時代は、市場の競争で勝利していくことは可能なのだろうか。
もちろん、イノベーションによる個人が持っているスキルの陳腐化という問題に対して、そのリスクを個人が全て責任を引き受ける事は難しい。50歳から突然、国際営業部に配属され、新しく、彼がなんとかできる言語であった英語だけならともかく、その他の数カ国語の取得を半年とかで命じられれば、普通の技術職のメンバなら、ほとんどの場合、リタイアしてしまうだろう。

今、大企業で生じているのは、組織を維持運営するトランザクションコストが膨大になって、非効率な運営をせざるを得ないと言うことではないのだろうか。日本全体がそういう状況になってしまって、IT業界は滅びに向かっていく。

オープンソースコミュニティ

redhatは、オープンソースコミュニティの成果をパッケージ化して、それを商品として売り、保守やコンサルを提供することでビジネスとしている会社です。redhatが商品として提供するLinux関連製品は、商品であるわけですが、実体となる製品は、オープンソースが作ったコモデティティです。コモデティティは、汎用品とか標準品という意味があって、それは確かに、商品ではないのです。
コモデティティには、商品以外の意味もあるので問題ないのかも知れませんが、オープンソースコミュニティは、あくまでも、贈与に基づく互酬制の言わば「共産主義的な」コミュニティです。

オープンソース製品を使う場合、そのコミュニティネットワークに直接か間接的に巻き込まれます。その巻き込まれ方は、Windowsとかの場合とはまた違った巻き込まれ方だ、というところに特徴があります。例えば、問題が生じた場合は、ユーザ同士の自主解決をすることが求められているからです。保守をredhatと結んだ場合は、redhatがコミュニティとの代理的な対応を行う事になる。

すなわち、オープンソース製品という商品は、ある種のコミュニティのライフサイクルにコミットしながら、生まれてくるのです。それは商品であって、商品以上の性格を持っており、そしてかつ、コモデティティ=商品ではない、という性格もあわせもっている。

そういう妄想の前提として、GPLというライセンスがあったり、イロイロとコミュニティを維持運営するルールがあったり。元々、オープンソースコミュニティは、親殺しのコミュニティで、Unix/AT&Tベル研究所からの出エジプトみたいな性格をしていて、「ユダヤ人」的な性格をしています。Linuxカーネル創始者であり、プロジェクトリーダ/アーキテクトのリーナス・トーバルズは、生きていて活動していますが、この路線の妄想では、イエスみたいなもんで、Unixを再定義しており、完全にフリーなOSとしてLinuxを作ったと言っているのだから、キリスト教に近いわけです。

彼らの思想は、知的財産としてのプログラムは、誰もがソースコードを読めて使う事も出来れば作り直す事もできる。彼らはコミュニティに恩恵を持っているし、コミュニティに贈与する義務があるという思想を維持しようとしています。

彼らは、インターネットというインフラを身方につけて、進化していきます。これを敷衍していって、何段階か勧めると、Googleが目指す世界政府は、ネットワーク上にあるのか、ないのか、とかそんな話しになるわけですが・・・。

※以下の二つの差異について気をつける事。
商品化(commodification:1970年代中期〜後期、一般語)
コモディティ化(commoditization:1990年代前期〜中期、新造語)

ソルトのために

ソルトの面白さについて

ソルト的な世界は、いったい何に特徴があるのだろうか。この映画には、男性にとって受け入れ難いところがまずもって目に付くだろう。かつて、車と女と銃があれば、映画が撮れると語った監督がいたが、このソルトという映画は、車も女も銃もあるのに、映画が映画に相応しくない装いをしているのだ。
サスペンスに次ぐサスペンス。アンジェリーナ的な世界のいかがわしさと痛みは、女もの顔を易々と
傷だらけにしてしまうところにあるだろう。まるで、それは、途方もないレイプの被害者か、DVの被害者のそれを思わせる。彼女には最愛の夫がおり、その夫と結ばれたのが、彼女が痛ましい暴力を受けた後だったことを思い起こすと良いだろう。

すべてを受け入れると語った蜘蛛学者の夫のように、彼女の映画はを見るものはすべてを受け入れるしかない。そして、彼女と死ぬまで寄り添うことを選ぶしかない状態におかれるのだ。
賞賛し、愛でる対象である女性をどうしてここまで痛めつけることができるのか。どうして、ほんの安らぎの場所すら彼女から奪われてしまったのだろうか。この映画はには、そうした謎がいくつも潜んでいる。








恐慌前夜

87年のブラックマンデーは、プログラムによる自動売買が引き起こしたものでした。想定外の株価の移動に対してシステムが意図しない反応をしてしまいパニックから暴落に発展していきました。

今回のケースは、サブプライムローンという高度な金融商品の破綻に端を発して、金融の「核兵器」と呼ばれるCDS(Credit default swap:債権保険)が破綻寸前の状況を作り出しています。

サブプライムローンにしろ、とりわけ、CDSなどは、通常の常識では投資に値することなどないリスクの高い商品です。にもかからず、限定した条件のもとでなら機能する状況を数学や統計学を駆使して作り上げているわけです。一人二人のリスクの高い借り手には貸せないが、それを束ねたら信用が高まって、それを商品として売り出してそれ自体を売買の対象とできる・・・。あるいは、CDSは、破綻した債権に対して元本を保証する。いずれにせよ、複雑な数学やコンピュータが可能にした複雑ゆえリスクが評価できなくなって、つまり、リスクが見えなくなって、なんとなく、「信用しても良い」「信用したい」「信用できないはずがない」という幻想に支えられたものです。

株式投資などは、投機であり、未来の市場価格(実体の価値ではなく)を予想して売買します。デタラメな比喩を使うと国や連銀や中央銀行が胴元をして、テラ銭として税金を吸い上げていく博打のシステムだったと言えそうです。日本は莫大なテラ銭をアメリカ国債を買い支えるという形で支払ってきたのですが、不良債権アメリカ国債スワップするという話も出ているようですから、もっと支払う事になるかも知れません。

そういう賭けのゲームにおいて、プレイヤーたちの賭け金を保証する仕組みが、CDSだったのです。一定額の納めると破綻して回収不能になった債権を保証してくれる・・・そういう仕組みです。これって、アホか?です。だって、賭け金は、勝つか負けるかするから、賭けなんであって、負けたときに「賭け金を保証するって何だ?」です。

特殊な限定された状況やアメリカが基軸通貨として機能してアメリカに資金環流する仕組みがあって、その資金が株式投資に使用され続ける・・・というブレトンウッズ体制(71年の金ドル交換停止で機能しなくなった)の亡霊に支えられたものだったのです。

レーガン政権とブッシュ政権のもとで、膨大に膨らんだアメリカの対外赤字は、国内に投資として戻ってくるという不思議な状況にありました。この不思議な状況が作り出した幻想の核をCDSが支えていたのでしょう。
CDSそのものは悪いのではないのですが、それが、マスに広がった時に今回のような世界金融恐慌になってしまう。

情報システムやITにかかわる人間として、87年のプログラム自動売買の例とか、今回のケースとかには非常に興味があります。システムと実際の運用についてどう考えるか、みたいな話でもあります。リスク管理をどうするか、そういう話でもあります。

株をやりたいという友達には常々、言ってきたことがあって、大相場のように、全体が好調な時に個人が投資すれば儲かることもあるだろう。でも、現在のように複雑な状況では、個人は勝ち続ける幸運な人がいても、会社単位で見たら、それは不可能なんじゃないか、と言っています。今のように、賭博性が高くなり、手数料も下がってしまった状況では、個人は儲かっても、証券会社の規模で、ディーラーに投資をさせて収益を上げ続けるのは困難ではない、そういう気がするのです。
リーマンの社員たちは、平均年収3000万とかで、ゴールドマン・サックスは年収6000万が平均だったそうです。今回でも会社は破綻しても引っ張りだこの、ディーラーがいるそうです。

彼らは、勝ち逃げできる人たちです。彼らが派手に暴れたゲームの後始末に、国税が使われます。海の向こうの乱痴気騒ぎに、日本経済や政府や金融機関は翻弄されて、貧乏で借金だらけの日本国民の税金が使われます。
東京三菱UFJとかはその時の市場価格の四倍程度で株式を購入します。
困ったものです。