ポストモダン経済と労働(1)

『フラット化する社会』とか、リチャード・フロリダの『クリエイティブ資本論』などで論じられているように、先進国と呼ばれる国のなかで決まったルーチンの事務処理的な仕事をしていたホワイトカラーが少なくなり、企画部門や調整やリスク管理のような高度なスキルと想像力と創造性が必要な職種が増えているという状況が本当ならばそれは日本においてどういうことが起こっているのかをみたい、という欲望で白書を見ていた。

格差社会といわれる社会は確かにリアリティがあって、労働配分率が下がっているという
現状もある。それがいったい何か、という問題がそれだ。『蟹工船』が流行ったりしているように、単純な素朴疎外論への後退を理論家たちが行ってはならないだろう。
例えば、日本の場合、50年代や60年代(〜90年代まで)は、労働経済白書にも分析されているように、労働生産性の向上と労働力の移動がパラレルに調和的に推移していた。すなわち、生産性の高い競争力の強い分野に、労働力が集約的に集められ、そして、高い労働配分率を維持することができたのである。すなわち、所得倍増計画などを思い出していただければいいが、日本の護送船団方式のもとでの銀行の金融政策や公共事業中心の財政政策が、確かに、日本の国民一般の所得を向上させた、という事実があったのだ。実際、日本の建設労働業界にいる人たちの割合は、先進国の中で最高水準にあって、フランスやアメリカの倍以上という数値もあるようだ。
道路族たちの仕事が国民の「ため」だった時代は、古くは田中角栄の頃からあったわけで、それは「正しく」言葉の正当な意味で、労働者たちの福祉と生活を向上させたのだ。

ところが2000年代になって労働力の移動は、生産性の高い部門へとなされるのではなく、より生産性の低い部門に向かって起こっていることが「労働経済白書」(p217 第3ー(3)-1図参照)で示されている。これは、実際に、格差社会や「ハケン労働」の増加で実感されていることを数値とグラフレベルで示したものではないだろうか。
有り体にいって、リストラされた人たちが、とりあえず、飲食店業をはじめとして、各種サービス業で仕事をしたり、言い方悪いんだけど、街中にあふれかえっているタクシーの運転手になってしまっている、という状況を示すものなのだろう。

これは、中長期的に見るならば、労働者の所得水準を下げることはもちろん、日本経済の競争力そのものにとっても大問題であって、企業の生産性の向上が、合理化とか、リストラとか、人的コストの削減としてしか、行われていない。すなわち、例えば、ITの導入が生産性の向上に繋がって、利益を生んで新しい雇用を創出している、というストーリーにはなっていない、ということだ。もっと言い換えれば、既存の技術の応用とか合理化はあっても、新機軸を打ち出して、競争力の強い分野が日本に登場した、とかという話ではない、ということだ。

格差社会について問題にした時、一方的に企業側を責める論調があって、それはそれで良いのだろうが、実際に生じていることを分析するのはまた違う視点が必要だ。
日本の経済的な停滞と凋落、あるいは、格差の広がりの原因は、日本が新しい21世紀型の世界経済の構造や資本主義社会の進化に追いついていないからだ、と言った方が正しいだろうということだ。すなわち、従来型の組合活動や賃上げ活動のような連帯も必要ならやればいいだろうが、たがしかし、そういうものでは、格差社会の広がりの圧力を押しとどめることは難しいということなのだ。あるいは、そうした旧来型の「労働運動」が易々とナショナリズムに転化し、人種差別的な排他主義に落ち込む可能性もあるといっておこう。すでに、老人のケアの人材などで導入が進められているように、安い海外の労働力への依存が、最悪の人種差別を作りだし、どこかの国のように、排他的な政策をますますとるような方向に向かっていくこともあり得るということだ。

労働経済

宇野弘蔵の古い本を読み返してみたり、新左翼が宇野にみた可能性を読み返したり、田畑さんとアソシエーションや労働運動の現場について議論したりしています。また、ナチズムへの敗北の原因を探ろうとしたフロイトの弟子ライヒを見たり。
1930年代の論争を現代から眺めるみたいなことをぼーっとしています。たぶん、「内面化された権力」への抵抗という主題はこうしたことともつながっているのだろうと思います。最近、『蟹工船』のブームだったりして、素朴疎外論復権してくる気配を見せていますが、何か違うという意識を持っています。派遣労働で低賃金で苦しんでいる人と話していると「そりゃそういう考えだと仕方ないよ。やすく使われるよ。」という方を多くみかけます。そういう方に、「所得を倍にしたければ、こう考えるべきだよ」、と言っても、笑うか、考え込んで相手にしてくれません。

そこでは、内面化され奴隷化された権力との共犯関係というか、剰余享楽によって、生存させられているおぞましい主体が見えることもあります。
ジジェクをへんに読めば、剰余享楽によって、あるいは、剰余価値を搾取されることで、対象aを中心に主体として構造化されている労働者たちは、かろうじて、そこで、主体的に生活できているのだと読めてしまいます。現代的なポストモダン状況においては、「彼らは搾取されるのを知っている。だが、それゆえに、(派遣)労働をする」、というジレンマを生きているように見えます。

バレンボイムの『モーゼとアロン』

急遽、友人が、奥様が海外出張でイケなくなったからと言って、誘っていただいたので、バレンボイム指揮の『モーゼとアロン』を見に行くことになった。
http://www.nbs.or.jp/berlin2007/detail03_top.html


シェーンベルクの未完の傑作オペラであり、この曲は、新ウィーン学派の音楽(12音技法)そのものを思考するオペラとして「聖なる断片」(アドルノ)と呼ばれたりもする。
モーゼとアロンは、神の唯一性とか絶対を主張する指導者モーゼと民衆のために通俗化した神を提示するアロンとの対立として描かれている。アロンは、神を通俗化し、民衆にとって分かり易い像を与え、「黄金の羊」を提示する。一方、モーゼは、神の表象不可能性(図像化禁止のユダヤ教的な戒律)を主張し、自身の直観と論理性に忠実に神を吃音を発しながら説くことになる。

このモーゼとアロンの対立は、当時、難解とされた不協和音(モーゼの吃音に重なる)を駆使し、論理的に首尾一貫した作曲法であった12音技法をモーゼに、一方、耳に心地よく伝統的な調性音楽をアロンの言葉に乗せて演奏し、12音技法と調性音楽を意味する対立へと音楽的に置き換えられている。すなわち、『モーゼとアロン』は、現代音楽というか、12音技法そのもののアレゴリカルな作品となっているのである。

もちろん、『月に憑かれたピエロ』だろうが、『モーゼとアロン』であろうが、すでに、演奏技術が発達し、当時、演奏不可能と言われた作品も演奏可能なものとなったというか、すでに、普通のレパートリーと言えるのかも知れない。ライブで見るのは難しくてもCDだのDVDだのBSとかで見ることは出来るだろう。

とはいえ、未だに、『モーゼとアロン』は哲学的にも美学的にも音楽的にも意味のある作品で、できることならば、それを現代的に解釈できる作曲家と演出家の下で見てみたいわけである。
自分はこの作品を20世紀のゴダールと並んで、最もコアな映画監督であるストローブ=ユイレの作品で2度ほど見たことがある。その映画は、今から見れば古くさい演奏なのだが、シェーンベルクの親戚筋でもあるギーレンの指揮で演奏されたものであった。

バレンボイムについて今更言う必要もないだろうが、ユダヤ人音楽家として、ピアニスト、指揮者として有名で、あのフルトヴェングラーに見いだされた才能として知られている。ブーレーズの作品の演奏でも知られており、現代音楽の演奏にも定評がある。また、パレスチナ人批評家の故サイードとも交流しており、イスラエルで禁断の音楽ワグナーを演奏したり(ナチの記憶もあり、政治的に演奏できなかった)、パレスチナで音楽会を開いたりしている。
バレンボイム/サイード』(みすず書房)を読んでいるけれど、結構、面白い。

一方で、シェーンベルクの予習としては、アドルノの『新音楽の哲学』(平凡社)が新訳で出た事もあって、久しぶりに読み返している。できたら、ストローブ=ユイレの『モーゼとアロン』もDVDを持っているので見直してから行きたいものだ。

今回の演出についていえば、マトリックス風の装いをしたりと、近年のヨーロッパでの流行のスタイルのオペラになっているようです。そう言う意味で、オペラと言えども気楽な「エンターテイメント」の面もあって、哲学的な思弁に傾きがちな「モーゼとアロン」という作品を面白く見ることが出来るのかと期待してます。なんせ、ベートーヴェン、ワグナー(マーラー)に続く、自身の音楽の根源性を自ら主張する最後の作曲家とも言えるシェーンベルクの未完のオペラなんですからねー。その後、シェーンベルクのような作曲家は、ブーレーズくらいしか出ていないわけで・・・。


今回の東京行きは、18日から19日にかけてなのだけれど、ちょっと日程的に詰まっていて、あまり余裕はない。東京オペラシティTOC)で、坂本龍一とダム・タイプの高谷史郎がメディアアートをやっているのでこちらは見てくる予定だ。
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2007/LIFE_fii/index_j.html

ダ・ヴィンチコードと中国の上映禁止について

0. はじめに

ロン・ハワード監督、『ダ・ヴィンチ・コード』は5月19日の封切り以降、全国で1300万ドルの興行収入を上げるほどの人気の映画であり、外国映画として「タイタニック」に続いて歴代2位の1310万ドルの収入を上げた「パール・ハーバー」を抜くのは時間の問題とみられていたにもかかわらず、6月8日の突然の上映の中止が決定された。この上映中止は、朝日などの報道によれば、以下のように記述されている。
 中国の英字紙チャイナ・デーリーは9日、米映画「ダ・ヴィンチ・コード」の上映が8日で打ち切られたと報じた。同映画については、キリストに子どもがいたなどの内容が世界で物議を醸したが、中国でも政府公認のカトリック教団体「天主教愛国会」がボイコットを呼びかけていた。
 同紙によれば、国内の映画産業界からの国産映画振興の呼びかけに対して同映画の配給元が応じたため、という。しかし、実際には宗教間の対立を懸念した当局の意向を反映した結果と見られる。北京市内のある劇場は「宗教が原因だ」と語った。(http://www.asahi.com/world/china/news/TKY200606090301.html

この報道によれば、宗教的な対立をこの映画が煽るためにそれが結果的に政治的な問題に発展することを避けるために上映中止されたと解釈できるだろう。中国はこの映画だけではなく、性表現が過激などという理由で上映を中止することもこれまでにあった。
一部の報道では、『ダ・ヴィンチ・コード』の上映が終了した、と当局が強弁しているようであったが、上映が大好評であった状態なのだから、この強弁は考えにくく、やはり、中止されたという方向で理解したい。

だが、この『ダ・ヴィンチ・コード』の上映中止の理由を国内の宗教対立に配慮したためとして満足してしまうと本質的な核を取り逃す事になるだろう。それは、「宗教対立への配慮」という表面上のメディアによる報道を鵜呑みにすることで、結果としてメディアと共犯関係を結んでいる政治が覆い隠そうとしている何らかの「トラウマの核」を把握できる絶好のチャンスを取り逃がす事になるからだ。

「宗教が原因だ」という北京市内のある劇場が語った言葉の中身をそれが相応しい文脈へと差し戻すことは、興味ある問題を提供することになるだろう。それは、この映画の構造そのものが、原理的に呼び起こすある種のアレゴリカルな解釈=分析の力に関わっているからだと筆者は考えている。
先取りして言えば、文化大革命天安門事件を思い出すまでもなく、中国において言論の自由表現の自由が制限されていることが重要なのだ。さらには、歴史的な真理の体現としてのマルクスレーニン毛沢東主義にまで遡る原理的な問題を提起しているのだ。そして、それは、中国の国内問題に止まらない。

このエッセイでは、まず、映画と歴史のアレゴリーとの関係について軽く触れた後、この作品の構造をアレゴリーという観点から描き出す。
その後で、宗教的真実と自由の対立、言論の自由の問題に踏み込んでいくだろう。さらには、民主制と独裁制の問題にまで触れられる事になる。

1.映画と歴史のアレゴリー

ロン・ハワード監督『ダ・ヴィンチ・コード』は、批評家の事前の評価はそれほど高いものではなかったようだが、上映開始されるや否や、宗教的に挑発的な内容を伴っている事もあって、賛否両論の論争に巻き込まれる事になった。それだけではなく、敬虔なカトリック信者などからは軽薄と言われるにもかかわらず、記録的な売り上げを達成していると言えるだろう。日本においてもその事情は変わらず、キリスト教的には中立的な状況にもかかわらず、相当な売り上げを達成していると言える。

この映画を3回別々に見た映画好きとしての感想を言えば、確かに、批評家たちが言うように、それほど技術的に洗練されたものとは思えない。ティム・バートンやサムライミなどの方が洗練されていると言えば言えるのだろうし、イーストウッドのような古典性も存在しない。

とはいえ、ロン・ハワードの映画は、『ダ・ヴィンチ・コード』と同じように論争を巻き起こし、上映禁止の処置が取られた国があった『Passion』にマグダラのマリア役で出ていたオドレイ・トトゥを使うなど、一定の映画史的な目配りを忘れてはいない。
 
 『ダ・ヴィンチ・コード』は、イエスが、「ユダヤ人」の「王」=救済者として認識され教会が形成された時に、隠蔽された「秘密」を問題にしている。ここでロン・ハワードの映画史的な目配りという意味だけではなく、映画において「イエスの死」がどのように描かれるか、という点においてもメル・ギブスンの『Passion』(2004年)を参照することは興味深い。

メル・ギブソンの映画『Passion』(2004年)で目立つのは、イエスに対する執拗で残忍な肉を抉る鞭打ちのシーンであり、その身体から吹き出す血であり、抉られた肉である。この映画のイエスに対する執拗な攻撃性を示すのは、「ユダヤ人」であるわけだが、その点が、この映画の問題として取り上げられた。だが、歴史的な史実と神学的な解釈についての論争に分け入らないで、瞳に映るその映像を見てみれば、そのイエスの身体を切り刻む鞭打ちの過剰性は、肌を血で赤く染め物質としての赤い身体の露呈としても記憶されるべきものだ。

この過剰な身体の赤と鞭打ちの執拗さそのものが、イコンとしてのキリストの身体を映画において高める効果を持つと言えるのではないだろうか。この映画の残忍性は、歴史のアレゴリーとしての現代の原理主義が絡んだ紛争や戦争をイメージしたものであるとメル・ギブソンは語っている。メル・ギブスンは、現代においても原理主義的な宗教、例えば、イスラム原理主義キリスト教原理主義などなどが、宗教的な論争を超えて、「神の名」において関係のない民衆を巻き込み戦争やテロを行っているという現代の時代へのメッセージが込められていると語っている。この映画で、罪を購うために磔にされるイエスは、現代における戦争やテロの犠牲者としての「民衆」というわけだ。

メル・ギブスンの意図がどうであれ、映画『Passion』は見るものに対して過剰なまでに、民衆の扇動的な有り様や「宗教」指導者たちの悪意を描いている。「宗教」指導者たちは、「民衆」を扇動し、教義や政治的な矛盾をスケープゴートを作り出す事で解決しようとする。宗教指導者は、スケープゴート作り出し、解りやすい民衆や宗教指導者たちにとっての共通の「敵」を作りだし結束を固め、矛盾を「止揚」し制度を維持しようとする。

映画において執拗に繰り返される罪の実体化的な刻印を身体において刻む儀式としての鞭打ちは、イエスの体を真っ赤に染めていく。ここで、キリスト教において「血と肉」がどのような意味を持っていたかということは思い出すまでもない。『新約聖書』に描かれ、宗教的・歴史的に存在したとされるイエスと弟子たちとの『最後の晩餐』において、「パンと葡萄酒」の教えが語れるが、そこで、イエスは、パンは、イエスの肉体を、そして、葡萄酒は、イエスの血を示すものと教えを授けるのだ。キリスト教徒であることは、イエスを思い出すために、祈りのちに「パンと葡萄酒」を食すものたちであるというわけだ。キリスト教にとって、イエスの「血と肉」は彼らの中心的な儀式によって物質的なもの以上の「象徴的な意味」を担っている。『Passion』において過剰なまでに表現されるイエスの「血と肉」は、民衆の罪を贖うものとしてのイエスを強烈に示しているのだ。
ダ・ヴィンチ・コード』はその宗教的・歴史的な正当性はともかく、オプス・ディの信者であるシラスが、「磔」にされたイエスを思い起こし、シリス帯で太ももを締め付けることでイエスの痛みを想起し、身を清め宗教的な真理に近づこうとする。この映画のスキャンダルは、父-子-精霊として把握された「唯一絶対の神」=キリスト=イエスが、神格に高まるために、マグダラのマリアとの「異教」的な交わりを必要とし、その子が、イエスの意志としての教会を受け継ぐとされているところにある。
 『Passion』は報道されているところから(引用)では、罪ある神官やユダヤ教の指導者たちの描き方が、現代においてユダヤ教への宗教的な対立を引き起こすとして批判を投げかけられ、スキャンダルを巻き起こした。
 映画というフィクションにおいて史実を描く事が現代の宗教的・政治的な力学によって、制限されることになったわけだ。よく知られた事実として、ハリウッドにおいては、34年代〜68年までヘイズ・コード と呼ばれる倫理規定が存在し、宗教・道徳・政治に関する表現がプロダクション側によってあらかじめ検閲され制限されていた。映画の表現の力が、恐れられていたということだ。


2. 作品のアレゴリー的読解

ダ・ヴィンチ・コード』は、、歴史的なアレゴリーから作品に外装するという事で解釈が可能であるということだけではなく、映画それ自体においてその美学的な技法であるアレゴリーを呼び出しているのである。

定義的に言えば、アレゴリーは、ある事物を直接的に表現するのではなく、他の事物によって暗示的に示す技法とされる。そして、人間存在の様態や権力の諸勢力や理念を擬人化した登場人物によって具体的に表現するという特徴を持つ。さらに、謎解き、裏切り、陰謀等々のテーマがそこに重ねられる。こうしたアレゴリーは古くは宗教的な寓意表現となって、教訓を示すものとして捕らえられた。時代的・様式的にバロックにおいてその頂点を迎える。現代におけるアレゴリー復権は、先駆的にヴァルター・ベンヤミンが、『ドイツバロック悲劇の根源』においてなしているが、ここではその成果を一般的に使用したいと考える。

上記のアレゴリーの説明は、そのまま『ダ・ヴィンチ・コード』という映画そのものの解説にはなっていないだろうか。映画に数々登場するアナグラムなどの文字の置き換えや隠された寓意の解釈の数々。また、ソニエールが率いる秘密結社と裏切りやイギリス人リーによる陰謀、そして、肉体的な極度の苦痛など、こうしたものは、バロック的なアレゴリーがその内実として持っていたものに他ならない。

バロック的様式においては、バロックという名の語源が、「歪んだ真珠」であるように、ルネサンスの神が創造し、人間を中心とした世界の表現という調和が崩れ、多中心的な理念の拮抗として世界が表現される。『ダ・ヴィンチ・コード』は、三位一体のカトリック的なキリスト教的真実と異教的な真実が対立拮抗する。カトリック的な世界に対立するのは、マグダラのマリアをイエスの教会の後継者としていだく、男性と女性の二つの中心の拮抗として描かれる世界である。唯一絶対の神が、世界の中心として君臨する世界ではない。カトリック的な世界を代表するオプス・ディの信徒も狂信的とも言えるシラスの苦行によって魂の浄化がつねに問われるものとして映画に登場する。つまり、彼は、信仰を絶対のものとして調和として実現することは許されず、絶えざる限界的な苦痛と苦行、そして、時には人を殺める殺人者として生きる事で信仰を全うし、神の救済を矛盾のなかで実現しようとする。神の光に照らされるには、理性の闇を限界のなかで克服するしかないのだ。

ジャン・レノ演じる捜査官とて、自分の捜査的な正当性は、操りと陰謀のなかで行われるものでしかない。こうしたなかで、自由の理念のアレゴリーとして登場しているのが、ソフィー・ヌヴーである。彼女は、トム・ハンクス演じるラングドンを救い出すところから登場しているという点のおいても自由の形象であるし、結果的に、宗教の根源性を問う存在であるという点においてもそうなのである。彼女は、信仰をカント的な意味において超越論的に「信仰とは何か」、と問える根源にまで到達するという意味においても理性の自由を駆使しており、自由のアレゴリーである。一方で、ラングドンは、閉所恐怖症という視野の狭さへの恐れをつねに抱いているが、謎解きと騎士としてソフィーを護る存在として描かれているが、それは、人間のアレゴリーであり、悟性のアレゴリーと考えることも出来よう。有限で、限定された存在でありながら、悟性を駆使し、謎を解き、ナイトとして節制のなかで、目的を達するという意味において、現代の人間のアレゴリーとは言えないだろうか。
 
3.歴史のアレゴリーとしての「宗教」

 では、この映画のどこがそれほどの不安をある政治体制に与えるのか。冒頭の北京市内の劇場関係者の言葉を思いだそう。「宗教が原因だ」。
 この言葉の意味は徹底的にリテラルに把握する必要がある。「宗教が原因だ」というのは、
この映画におけるその形式において「宗教」
のその取り扱いの仕方と人間の善の意志そのものの基礎においてカント的に考える必要がある。
この映画において、トム・ハンクス演じるラングドンが、ソフィーに尋ねる仕方を思いだそう。
 
彼は、ソフィーに「マグダラのマリアの子孫であり、キリストの子孫であったことをあかすのか」と聞く。そして、彼はこうも言っている。「歴史の真実を明かして信仰を破壊することに利用するのか、信仰を再生するのか。結局、何を信じるかだ」、と彼は言うのである。
カントの超越論的哲学において、宗教は、カッコに入れられ、その真実は結果において人間の欲望を善へと導くものだと捕らえ返される。
カントは宗教を例えば、「唯物論」的に解体しないが、だが、無前提に「肯定」もしない。
カントは、ここで、「理論的な信」と言うのだが、それは、批判にさらされたものの中に、「信」としての核が潜む事を明らかにしているのである。つまり、ラングドンが言うように「結局、何を信じるかだ。」
 この映画は、信仰を破壊しないが、信仰を肯定もせず、信仰の「信」に対する態度を宙づりにするのだ。それは、肉体を厳しく鞭打つことを要求するのでもなく、司祭の言葉を無批判に無前提に信じる事を要求するのでもなく、「信」の「信」の核を宙づりにし、ラングドンが、マグダラのマリアという自由の理念に跪くところで映画は終わるのである。
 それはまさに、カントが三批判書や『啓蒙とは何か』で語ってきた権威からの理性(悟性)の自律というテーマそのものなのだ。

この映画では、繰り返し語ってきたように、ダ・ヴィンチを扱っているにもかかわらず、理想的な人間としてのルネサンス的な調和が問題ではなく、宗教と自由と真理のあいだで揺れ動き、精神に陰影がついている人たちが問題になっている。
この映画のアレゴリーを歴史のアレゴリーとして見るとソフィーは、自由の女神の末裔として自由人の象徴であり、ジャン・レノは、アメリカの言いなりになる同盟国であり、オプス・ディの関係者たちはキリスト教原理主義とブッシュ・一派を暗示させるように見えはしないだろうか。そしてあの老人は、そうした原理主義を操る黒幕としての「イスラエルパレスチナや中東の役割を思いだそう)」や軍事産業などかも知れない。

そして、アメリカという国が、ヨーロッパからキリスト教という厄介なものだけではなく、まさにその建国の理念において自由を持っていた事、そして、フランスから自由の女神を贈られた事、すなわち、ニューヨークには、「異教徒」がしかけた9.11のテロの贈与以外に無限のものが贈与されているということを描いているのではなかったか。
最後にトム・ハンクスルーブルマグダラのマリアを思いながら跪いた時、あれは本当にアメリカの人たちに自由を記憶のなかで想起するように描いたのではないだろうか。

4.結論・・・「宗教が原因だ」

 これまで明らかにしてきたように『ダ・ヴィンチ・コード』においては、ある諸理念の対立と逃走の調停が問題になっている。すなわち、カトリックの狂信的な信者、マグダラのマリアを信奉する異教徒、信仰を否定し、キリストを預言者に格下げすることで歴史的な事実へと解体しようとする無神論者、そうした宗教を巡る対話の構造が問題となっている。これは、キリスト教とその他の宗教と無神論に置き換えても良いのだが、問題は、その構造そのものが開く、「信仰の宙づり」そのものが「トラウマの核」なのである。
 中国を指導する政党は、中国共産党であるが、この体制そのものが矛盾をはらんでいる。理論的に皮相な解釈をすれば、マルクスレーニン毛沢東主義において、プロレタリアートの実現と真理の実現を同一化することで歴史的な矛盾を止揚する真理を担う階級を組織する政党そのものの有り様がその問題を作り出すのである。
 
 歴史的なある状況下で真理を担う階級であったかも知れないが、それが、文化大革命の悲惨な状態から天安門事件にいたるまで、制度そのものを維持するために、国土を支配する階級として共産党が存在していること、それが、問題なのである。『ダ・ヴィンチ・コード』は、真理そのものが持っているトラウマ的な「核」を宙づりにするとすでに書いたように、この立場は、共産党の「真理」の次元をも宙づりにし、個人に対して、信じるべきものは「党」ではなく、個人の「理性」であることを教えるものであるからなのだ。映画はアレゴリーが形式として示すように、表面的には違う事を意味することを教育するものとしても機能するだろう。

 中国共産党にとって、この映画が継続して公開されることは難しい問題を突きつける可能性があった。それは、狂信的なカトリック教徒にとっての宗教的な真実と映画的なフィクションの取り違えという問題を超えて、歴史的な真理を担う階級としての中国共産党そのものの宙づりにしてしまう可能性があったのだ。カトリック教徒が映画を批判するためにキャンペーンを張り、一方で、民衆が映画を愛する時、その矛盾は大きなものとなったに違いない。人はまさに、「宗教が原因だ」と気づくかも知れなかったのだ。中国において、「宗教」として機能しているのは、個人を背後から指導する政党としての中国共産党に他ならないからだ。

 現在のアメリカがキリスト教原理主義に傾いているからと言ってもこの映画は上映中止されることはない。なぜなら、言論の自由表現の自由、そして、それを実現するものとしての大統領制と選挙が実施されるからだ。中国がこの映画の自由を受け入れる時、それは、共産党が自由選挙を受け入れる時になるだろう。当局が、『ダ・ヴィンチ・コード』を上映中止にしたのは、まさに、北京の劇場のコメントとして伝えるように「宗教が原因だ」からなのではないのか。すなわち、主体との関係において、宗教のように、政治の中心が機能しているからなのではなかろうか。
(2006.7.7)

十字架に張りつけにされるMadonna

たまたまTSUTAYAに立ち寄りマドンナの『Confessions Tour』のDVD/CDが発売されているのが気になって購入してしまった。マドンナのCDを購入するのは高校時代に買った『トゥルー・ブルー』以来なので20年ぶりに近い。
批評に興味があるものにとって、マドンナは、実は、やっかいな存在である。彼女は、とても知的な演出をし、例えば、シュールレアリストとして女性である自己を中心に描いた画家であるフリーダ・カーロの絵を大事に所有していたりする。そして、マドンナの家を訪問するものに対してフェミニズム的にも思える発言をしている事もあるようだ。フリーダ・カーロそのものが、かなりのモダニスティックでもあれば、単純にポップアートとは言えない問題を孕んだ画家である。
 マドンナは、かつてのマリリン・モンローと同じようにセックスシンボルとして理解されて一般的にそうしたイメージが流通しているが、モンローは、精神的に弱い面があり、ケネディなどに近づいてしまったのとは異なり、高い自立心を持っているように見え、極めて知的に振る舞っている。そのマドンナのDVDの作品を見ていてCD版には納められていない「LIVE TO TELL」を見て驚いた。すっかり忘れていたが、マドンナは、イエス・キリストを摸して十字架に張りつけられ、頭には茨の冠をつけて登場し、カトリック教会だけではなく、イスラム教会などで問題になっていたのだ。
 「ヒトラー、ブッシュ、ブレア」を並べて戦争の批判をしていたらしいマドンナの戦略は、ここでは、直接的なパフォーマンスとなっているが、元々、マドンナの名前が、「聖母マリア」を暗示させるのであり、宗教性を戯れることは彼女のイメージ戦略の一つなのである。キリスト教徒にとって究極の映像は、キリストの張りつけの映像であろうが、彼女は、まさに、偶像(アイドル)としてファンの前に登場するのであり、そこで、キリストのイメージと戯れながら、男性の嘘を告発する歌を熱唱し、背景にエイズの犠牲となって失われる子供たちの映像を流すのである。そして、最後に、マタイ福音書の次ぎの箇所を引用する。

25:35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 25:36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 25:37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 25:38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 25:39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
※王と書かれているのは、「God」のことでマドンナの字幕ではGodになっている。

 すなわち、キリストが語っているのは、最も貧しいものに施しをしなさい。それは、神に対して行う事と同じであるということであり、マドンナのメッセージは、エイズなどで飢えている子供たちを救済しましょう!というメッセージとなっている。
 
 こうしたキリスト教のイメージとの戯れは、映画の世界でメルギブソンが『パッション』で行い、『ダ・ヴィンチ・コード』でさえ行われていた事に近づく。すなわち、マドンナのキリスト教のイメージとの戯れは、明確な政治的なメッセージを持っているのであり、現在のネオコンキリスト教原理主義の影響が強いアメリカ体制に対する批判的な意図を表しているのである。すなわち、ポップ・アーティストとしてのマドンナは、ウォーホルが現代のイコンとして「毛沢東」の写真をシルクスクリーンにして戯れて見せた事を超えて、自らが、キリスト教的な真のイメージを纏った存在として登場する。彼女が、ローマカトリック法王をコンサートに招待したことはたんなる興行的な宣伝の意味ではない。彼女は、エヴァンジェリスト(福音を説くもの)として「LIVE TO TELL」(語るために生きる)を歌うのである。マドンナが、十字架に張りつけされた登場したのは、聖なる映像を「利用」するためではなく、秘密を明かすために行うのである。「A man can tell a thousand lies. I've learned my lesson well. Hope I live to tell The secret I have learned.Till then it will burn inside of me」(男の人たちは千もの嘘をつくことができる。私は身にしみて解ったのよ。私は、知ってしまった秘密を語る事ができるまで生きていたい。その時まで、それは私のなかで燃え続けるでしょう。)

彼女は、現代のアメリカ(イギリス)におけるいかがわしい宗教的な利用を異化し、その秘密を「告発」するためにあえて、十字架のイエスの姿を纏って登場するのである。

『ほしのこえ』が美しく引き裂くもの

新海誠のCGアニメ「ほしのこえ」を最初に見たものは何を言うだろうか。ドラマ性や物語性の貧弱さを指摘するものや静止画の多さを批判するものそういうものは数多くいるだろう。このCGアニメを批評するにあたってクリティカル・ポイントは、その25分という映像時間の短さのなかに何を表現できるかということである。地上の風景を構成する学校や雲、そして、雨、そして、宇宙の星くず。青く白い「雲」に対する黒い背景の「宇宙」という対比。そして、地上のノボルとトレーサーというロボットのパイロットのミカコの間。切ない中学生の間を時空が引き裂く構造の単純さと抽象性に感じる「美しさ」だろう。

物語の装置は、徹底的に二人の間を引き裂く構造として構築されている。踏切、異星人との闘い、宇宙と地上、届かなくなる携帯電話。ミカコの間に流れる時間とノボルの間に流れる時間のズレとして表現される時間は、「青春」の淡く切ない物語的な孤独を表現する現代的な装置となる。
「夜中のコンビニの安心する感じとか、放課後のひんやりとした感じ、そうしたものを君と一緒に感じたい。」、そう、ミカコとノボルは別の空間で別の時間の流れのなかで言うのである。別の可能性や別の存在様式、別の可能世界のなかで二人は「恋人」として二人で暮らしたかも知れない、そう暗示させることで物語りは終わる。「ねえ、ノボルくん、わたしはここにいるよ」と二人の声が重ねられる時、希望は二人の間から永遠に遠ざかるのであった。ミカコが星くずとなるとき、「ほしのこえ」は何を語るのだろうか。

『新世紀・エヴァンゲリオン』によって、自意識過剰な子供たちの神経質でもあれば、孤独な叫びを我々は知ることができるようになった。深海誠によって、物語の抽象度はさらに高められ、それゆえ、逆説的なことに、そうあったはずなのに、そうならなかった二人の「愛」が表現されるようになる。日本のアニメが欧米人にとってクールな印象を与えるとすれば、この抽象化した関係性のなかでヴィジュアルな平面的な風景へと登場人物たちが崩壊することでしか美的に救済されていないからであろうか。新海誠は、こうしたいわゆる「猥雑な」社会性を拒否し(外的な他者の関係性はエイリアンとの闘いとしてしか表現されない)、どこまでも時空的に重ならない二人の関係性を離接的なモンタージュによって表現する。新海誠は、現代の日本社会のバラバラに崩壊した社会的紐帯のアレゴリーを適切な形で舞台に登場させているのである。

思想家としての画家/岡崎市美術博物館

今日は岡崎市美術博物館で、「森としての絵画・思想家としての芸術家」というテーマの絵画展をみてきました。
現代の美術家の作品展で、岡崎乾二郎氏を筆頭に現代活躍中の若手画家たちの作品を集めた展覧会です。

現代美術のアートシーンは、抽象表現主義、ミニマルアート、ポップアート以後の状況下で混迷を極めて結局、モダニズム絵画がだらだらと延長されつつ、一方で緊張感を欠いたポップアートジャンクアートが状況を取り巻いています。

そう言う中で、岡崎乾二郎氏は群を抜いて形式的な絵画を徹底して突き詰めていて歴史的に真に新しい絵画作品を発表し続けています。2002年のセゾン美術展の回顧展が岡崎氏のまとまった初めての個展だったのですが、ようやく彼も古い体質が残る美術館という制度のなかでも、トップに位置づけられる作品としてとらえられたという点でも今回の岡崎市美術博物観展は画期的なものでした。思えば、カラヴァッジョ展を日本で最初に(東京と同時開催でしたが)やったのもこの美術館でした。

様々な伝統的な制約を抱えているキューレーターたちの目が美術批評を愛好する自分たちと拮抗する事はまれなのですが、彼らに敬意を表したいと思います。

25日は、岡崎乾二郎氏と中サワヒデキ氏が対談をしていた点でも興味深い日となります。
対談は噛み合うところと噛み合わないところがあって、まあ、50年代の音楽のシーンで、偶然性を巡ってなされた議論で、ブーレーズ(岡崎氏)とケージ(中沢氏)のようなところがあって、噛み合いそうで噛み合わないところも面白かったです。

中ザワヒデキ氏:
http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/

ところで、この絵画展で、コンピュータのドットとベクトルの対立軸で絵画を制作することの意味について
フォトショップイラストレーターの対立として比喩的に考察されていました。そこを一歩進めたのが、いつも冴えている岡崎氏で、オブジェクト指向プログラミングと絵画制作の関係について語っていたのです。

ここからは自分の解釈的批評ですので、岡崎氏の話と関係ないかも知れません。
オブジェクト指向プログラミングとは、システムを構築する際に、まず全体的な要件のイメージを要素(オブジェクト)に分解して、そのオブジェクトの相互関係としてシステムをくみ上げていくものです。

絵画制作の現場では、とりわけ、岡崎乾二郎氏の作品群はこの側面を際だたせているのですが、アクションの痕跡としての絵の具の部分的な塊を段ボールとかで型どりして、色を変えてそれを左右に配置することで作品を構成したりします。
http://www.smma-sap.or.jp/sm0203.html
(2枚に並べられた絵画のパーツは左右似ていて非なるものに構成されています。)

あるオブジェクトを抽象化してパッケージ化して作品を部品を配置するように全体のシステムを構成するわけです。
自分は、これを「オブジェクト抽象主義絵画」と名付けています。実は、どのような絵画も「馬のイメージ」だとか、「コップのイメージ」だとかを構図のなかに押し込める事で絵画が構成されます。

岡崎氏は、こうしたオブジェクトの相互の関係それ自体を際だたせる絵画を抽象画として展開しているためそれを「オブジェクト抽象主義」と名付けられるだろうと自分は考えています。
彼のこの技法は、ルネサンスから現代にいたる絵画の歴史のなかで底流として存在しながら抑圧され、問題化されることのなかったものです。彼が数百年にわたる美術の歴史のなかで歴史的に初めて絵画の世界で意識的にこれを行ったのです。

それは、言語の生成する瞬間にも似て、名付ける行為そのものの現場を際だたせる事に似ています。

しかし、問題はこれだけに止まりません。

オブジェクト指向は、現代のIT業界の要に位置する思考法で、現代の断片化する労働、すなわちアウトソーシングを可能にする条件でもあるのです。
そこで発生する労働のダンピングだとか(『下流社会』などですね)、そうした問題を絵画が引き受けているとも言えるわけですね。絵画においては、こうした「オブジェクト抽象主義」において構築される絵画は、手の動きによって事件としてなされたものであるからです。

キューレーターの天野一夫氏による岡崎乾二郎氏の紹介:
http://www.dnp.co.jp/artscape/view/focus/0210/amano.html