それは不意に再開される

このblogでは、私が日々感じること、考える事などをざっくばらんに、できるだけ肯定的な形で「軽さ」を求めて書いて行くことにしたいと思います。

私が書こうとするものは、映画、美術、小説などについての「批評」、インターネットを含めたIT技術や経済、政治状況を巡る「言葉」が中心になるかも知れませんが、それは、ある意味で、私の生の断片を横切った言葉に古よりのスタイルである「エッセイ」という形式を借りた考察となると思います。

それは、「思考=文体」の「形式」としての「エッセイ」であり、アドルノが言うようなたんに文学上の一ジャンルとしての「形式」ではなく、「思考=文体」の「形式としてのエッセイ」であることをどこかで主張するものたろうと微かな思いがあります。

生を横切った言葉が、自己に視線を注いでいるのを見て取る「眼差し」とそして、自己に語りかける「言葉」に耳を傾け注意深くあろうとするとき、人は立ち止まり、佇むことになります。その「遭遇」の瞬間を多様に向かって開いていくこと。画一化、均一化、そして、スピードが求められ、自己に眼差しを送ってくる「言葉」を無視することに慣れた日常のなかに「不意打ち」としてやってくるイメージ、言葉、etcに立ち止まる事。句読点をつけて、言葉を接ぎ木すること。それを求めて行きたいと思います。

長らく中断したままであった「言葉の海」に自己を曝し、それを「闘争」に向けてほんの少しばかり力を注ぐことを再開したいと思います。