吉田健一の時間

吉田健一は、現代の哲学者としてベルクソンプルーストを好み、18世紀英国
においては、ヒュームを哲学的に好みました。彼にとって、19世紀は、『ヨォ
ロッパの世紀末』にかかれているように(この本が引越ししたときにどこかに
行って手元にないのはとても残念なのだが)、黄昏の時代であり、人間ではな
く、観念に囚われてしまった時代だとして、吉田健一に批判されるのです。

 確かに、19世紀は、哲学としてはドイツ観念論の時代でありますし、詩も純
粋詩などが生まれたりして、観念化されたともいえます。端的に、芸術は「芸
術のための芸術」として観念的に理解されたのです。そして、貧困という緊急
の課題が登場したのが、この時代でもあります。ヘーゲルが「芸術の過去」性
を主張し、結果として「芸術の終焉」を語ったのは、反省的な知性ならば、芸
術などという趣味に拘ることは普遍的な精神の営みではもはやないという認識
があったからです。反省的な知性は、法学とか経済学とか、諸学に向かって、
国家的な事業に参画するというわけです。端的に、経済学は、富を分配し、貧
困という問題を解決するために、要請された「近代的な学問」なのです。

 だが、そうした諸学が、マルクスが批判するような観念的性格を持っていた
のも事実であれば、ヨーロッパの精神が、ニーチェが批判するようなプラトン
的に転倒されて歪められた世界観に基づいて構成されていたことも言い得ると
はいえるでしょう。

 ベルクソンの哲学は、およそ100年ぶりに物質的な言葉の力を回復させたの
だと、吉田健一は、語っています。しかし、これは奇妙なことです。なぜな
ら、哲学は概念で考えるものであって、詩ではないからです。そういう言い方
をするならば、ド・マンとともに、私にとっては、ヘーゲルの言葉ですら、物
質的な力を持っているのだと言いうる事ができます。
だとすれば、吉田健一が、言っていることは、
質的な違いではなく、量的な差異なのでしょうか。恐らく、それは、違うので
しょう。吉田健一は、別のことが言いたいのです。吉田健一は、ベルクソン
の認識論を持っているようにも見えますが、『時間』『変化』から判断する
に、私は、そうした哲学的な図式が働いているようでいて、働いていないと判
断しています。彼は、詩的散文とでも言うしかないものを書いていたといえる
かも知れません。

 ですが、彼が表現していることは「時間」という言葉のまわりに配置されて
いきます。彼は、時間という言葉をさまざまな角度から述べていくのです。

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吉田健一の考える時間を要約するならば、『時間』(講談社文芸文庫)の冒頭
の4行で十分だとも思える。彼は以下のように書いている。

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冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるも
のにあらわれているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がた
つかというのではなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなく
てそれが時間というものなのである。

吉田健一、『時間』(講談社文芸文庫)p.7


「短い」のでもなく、「長い」のでもなく、「時間」が出来事のように生きら
れること、そして、その時間は、主観の内的な形式でもなく、世界そのものの
形式として、過ぎ去るということ、吉田健一は、そのように時間を考えてい
る。暴力的に要約すれば、これだけのことを吉田健一は、彼のほとんどすべて
の小説、エッセイ、食物論、酒論、などにおいて書いてきた。そして、時間を
会得することは、若さには不可能なこと、それは、「老い」の営みであること
も知っていた。吉田健一は、時計に管理されるような「世界」から逸脱するな
にか、として、時間を考えていたのである。