十字架に張りつけにされるMadonna

たまたまTSUTAYAに立ち寄りマドンナの『Confessions Tour』のDVD/CDが発売されているのが気になって購入してしまった。マドンナのCDを購入するのは高校時代に買った『トゥルー・ブルー』以来なので20年ぶりに近い。
批評に興味があるものにとって、マドンナは、実は、やっかいな存在である。彼女は、とても知的な演出をし、例えば、シュールレアリストとして女性である自己を中心に描いた画家であるフリーダ・カーロの絵を大事に所有していたりする。そして、マドンナの家を訪問するものに対してフェミニズム的にも思える発言をしている事もあるようだ。フリーダ・カーロそのものが、かなりのモダニスティックでもあれば、単純にポップアートとは言えない問題を孕んだ画家である。
 マドンナは、かつてのマリリン・モンローと同じようにセックスシンボルとして理解されて一般的にそうしたイメージが流通しているが、モンローは、精神的に弱い面があり、ケネディなどに近づいてしまったのとは異なり、高い自立心を持っているように見え、極めて知的に振る舞っている。そのマドンナのDVDの作品を見ていてCD版には納められていない「LIVE TO TELL」を見て驚いた。すっかり忘れていたが、マドンナは、イエス・キリストを摸して十字架に張りつけられ、頭には茨の冠をつけて登場し、カトリック教会だけではなく、イスラム教会などで問題になっていたのだ。
 「ヒトラー、ブッシュ、ブレア」を並べて戦争の批判をしていたらしいマドンナの戦略は、ここでは、直接的なパフォーマンスとなっているが、元々、マドンナの名前が、「聖母マリア」を暗示させるのであり、宗教性を戯れることは彼女のイメージ戦略の一つなのである。キリスト教徒にとって究極の映像は、キリストの張りつけの映像であろうが、彼女は、まさに、偶像(アイドル)としてファンの前に登場するのであり、そこで、キリストのイメージと戯れながら、男性の嘘を告発する歌を熱唱し、背景にエイズの犠牲となって失われる子供たちの映像を流すのである。そして、最後に、マタイ福音書の次ぎの箇所を引用する。

25:35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 25:36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 25:37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 25:38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 25:39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
※王と書かれているのは、「God」のことでマドンナの字幕ではGodになっている。

 すなわち、キリストが語っているのは、最も貧しいものに施しをしなさい。それは、神に対して行う事と同じであるということであり、マドンナのメッセージは、エイズなどで飢えている子供たちを救済しましょう!というメッセージとなっている。
 
 こうしたキリスト教のイメージとの戯れは、映画の世界でメルギブソンが『パッション』で行い、『ダ・ヴィンチ・コード』でさえ行われていた事に近づく。すなわち、マドンナのキリスト教のイメージとの戯れは、明確な政治的なメッセージを持っているのであり、現在のネオコンキリスト教原理主義の影響が強いアメリカ体制に対する批判的な意図を表しているのである。すなわち、ポップ・アーティストとしてのマドンナは、ウォーホルが現代のイコンとして「毛沢東」の写真をシルクスクリーンにして戯れて見せた事を超えて、自らが、キリスト教的な真のイメージを纏った存在として登場する。彼女が、ローマカトリック法王をコンサートに招待したことはたんなる興行的な宣伝の意味ではない。彼女は、エヴァンジェリスト(福音を説くもの)として「LIVE TO TELL」(語るために生きる)を歌うのである。マドンナが、十字架に張りつけされた登場したのは、聖なる映像を「利用」するためではなく、秘密を明かすために行うのである。「A man can tell a thousand lies. I've learned my lesson well. Hope I live to tell The secret I have learned.Till then it will burn inside of me」(男の人たちは千もの嘘をつくことができる。私は身にしみて解ったのよ。私は、知ってしまった秘密を語る事ができるまで生きていたい。その時まで、それは私のなかで燃え続けるでしょう。)

彼女は、現代のアメリカ(イギリス)におけるいかがわしい宗教的な利用を異化し、その秘密を「告発」するためにあえて、十字架のイエスの姿を纏って登場するのである。