ダ・ヴィンチコードと中国の上映禁止について

0. はじめに

ロン・ハワード監督、『ダ・ヴィンチ・コード』は5月19日の封切り以降、全国で1300万ドルの興行収入を上げるほどの人気の映画であり、外国映画として「タイタニック」に続いて歴代2位の1310万ドルの収入を上げた「パール・ハーバー」を抜くのは時間の問題とみられていたにもかかわらず、6月8日の突然の上映の中止が決定された。この上映中止は、朝日などの報道によれば、以下のように記述されている。
 中国の英字紙チャイナ・デーリーは9日、米映画「ダ・ヴィンチ・コード」の上映が8日で打ち切られたと報じた。同映画については、キリストに子どもがいたなどの内容が世界で物議を醸したが、中国でも政府公認のカトリック教団体「天主教愛国会」がボイコットを呼びかけていた。
 同紙によれば、国内の映画産業界からの国産映画振興の呼びかけに対して同映画の配給元が応じたため、という。しかし、実際には宗教間の対立を懸念した当局の意向を反映した結果と見られる。北京市内のある劇場は「宗教が原因だ」と語った。(http://www.asahi.com/world/china/news/TKY200606090301.html

この報道によれば、宗教的な対立をこの映画が煽るためにそれが結果的に政治的な問題に発展することを避けるために上映中止されたと解釈できるだろう。中国はこの映画だけではなく、性表現が過激などという理由で上映を中止することもこれまでにあった。
一部の報道では、『ダ・ヴィンチ・コード』の上映が終了した、と当局が強弁しているようであったが、上映が大好評であった状態なのだから、この強弁は考えにくく、やはり、中止されたという方向で理解したい。

だが、この『ダ・ヴィンチ・コード』の上映中止の理由を国内の宗教対立に配慮したためとして満足してしまうと本質的な核を取り逃す事になるだろう。それは、「宗教対立への配慮」という表面上のメディアによる報道を鵜呑みにすることで、結果としてメディアと共犯関係を結んでいる政治が覆い隠そうとしている何らかの「トラウマの核」を把握できる絶好のチャンスを取り逃がす事になるからだ。

「宗教が原因だ」という北京市内のある劇場が語った言葉の中身をそれが相応しい文脈へと差し戻すことは、興味ある問題を提供することになるだろう。それは、この映画の構造そのものが、原理的に呼び起こすある種のアレゴリカルな解釈=分析の力に関わっているからだと筆者は考えている。
先取りして言えば、文化大革命天安門事件を思い出すまでもなく、中国において言論の自由表現の自由が制限されていることが重要なのだ。さらには、歴史的な真理の体現としてのマルクスレーニン毛沢東主義にまで遡る原理的な問題を提起しているのだ。そして、それは、中国の国内問題に止まらない。

このエッセイでは、まず、映画と歴史のアレゴリーとの関係について軽く触れた後、この作品の構造をアレゴリーという観点から描き出す。
その後で、宗教的真実と自由の対立、言論の自由の問題に踏み込んでいくだろう。さらには、民主制と独裁制の問題にまで触れられる事になる。

1.映画と歴史のアレゴリー

ロン・ハワード監督『ダ・ヴィンチ・コード』は、批評家の事前の評価はそれほど高いものではなかったようだが、上映開始されるや否や、宗教的に挑発的な内容を伴っている事もあって、賛否両論の論争に巻き込まれる事になった。それだけではなく、敬虔なカトリック信者などからは軽薄と言われるにもかかわらず、記録的な売り上げを達成していると言えるだろう。日本においてもその事情は変わらず、キリスト教的には中立的な状況にもかかわらず、相当な売り上げを達成していると言える。

この映画を3回別々に見た映画好きとしての感想を言えば、確かに、批評家たちが言うように、それほど技術的に洗練されたものとは思えない。ティム・バートンやサムライミなどの方が洗練されていると言えば言えるのだろうし、イーストウッドのような古典性も存在しない。

とはいえ、ロン・ハワードの映画は、『ダ・ヴィンチ・コード』と同じように論争を巻き起こし、上映禁止の処置が取られた国があった『Passion』にマグダラのマリア役で出ていたオドレイ・トトゥを使うなど、一定の映画史的な目配りを忘れてはいない。
 
 『ダ・ヴィンチ・コード』は、イエスが、「ユダヤ人」の「王」=救済者として認識され教会が形成された時に、隠蔽された「秘密」を問題にしている。ここでロン・ハワードの映画史的な目配りという意味だけではなく、映画において「イエスの死」がどのように描かれるか、という点においてもメル・ギブスンの『Passion』(2004年)を参照することは興味深い。

メル・ギブソンの映画『Passion』(2004年)で目立つのは、イエスに対する執拗で残忍な肉を抉る鞭打ちのシーンであり、その身体から吹き出す血であり、抉られた肉である。この映画のイエスに対する執拗な攻撃性を示すのは、「ユダヤ人」であるわけだが、その点が、この映画の問題として取り上げられた。だが、歴史的な史実と神学的な解釈についての論争に分け入らないで、瞳に映るその映像を見てみれば、そのイエスの身体を切り刻む鞭打ちの過剰性は、肌を血で赤く染め物質としての赤い身体の露呈としても記憶されるべきものだ。

この過剰な身体の赤と鞭打ちの執拗さそのものが、イコンとしてのキリストの身体を映画において高める効果を持つと言えるのではないだろうか。この映画の残忍性は、歴史のアレゴリーとしての現代の原理主義が絡んだ紛争や戦争をイメージしたものであるとメル・ギブソンは語っている。メル・ギブスンは、現代においても原理主義的な宗教、例えば、イスラム原理主義キリスト教原理主義などなどが、宗教的な論争を超えて、「神の名」において関係のない民衆を巻き込み戦争やテロを行っているという現代の時代へのメッセージが込められていると語っている。この映画で、罪を購うために磔にされるイエスは、現代における戦争やテロの犠牲者としての「民衆」というわけだ。

メル・ギブスンの意図がどうであれ、映画『Passion』は見るものに対して過剰なまでに、民衆の扇動的な有り様や「宗教」指導者たちの悪意を描いている。「宗教」指導者たちは、「民衆」を扇動し、教義や政治的な矛盾をスケープゴートを作り出す事で解決しようとする。宗教指導者は、スケープゴート作り出し、解りやすい民衆や宗教指導者たちにとっての共通の「敵」を作りだし結束を固め、矛盾を「止揚」し制度を維持しようとする。

映画において執拗に繰り返される罪の実体化的な刻印を身体において刻む儀式としての鞭打ちは、イエスの体を真っ赤に染めていく。ここで、キリスト教において「血と肉」がどのような意味を持っていたかということは思い出すまでもない。『新約聖書』に描かれ、宗教的・歴史的に存在したとされるイエスと弟子たちとの『最後の晩餐』において、「パンと葡萄酒」の教えが語れるが、そこで、イエスは、パンは、イエスの肉体を、そして、葡萄酒は、イエスの血を示すものと教えを授けるのだ。キリスト教徒であることは、イエスを思い出すために、祈りのちに「パンと葡萄酒」を食すものたちであるというわけだ。キリスト教にとって、イエスの「血と肉」は彼らの中心的な儀式によって物質的なもの以上の「象徴的な意味」を担っている。『Passion』において過剰なまでに表現されるイエスの「血と肉」は、民衆の罪を贖うものとしてのイエスを強烈に示しているのだ。
ダ・ヴィンチ・コード』はその宗教的・歴史的な正当性はともかく、オプス・ディの信者であるシラスが、「磔」にされたイエスを思い起こし、シリス帯で太ももを締め付けることでイエスの痛みを想起し、身を清め宗教的な真理に近づこうとする。この映画のスキャンダルは、父-子-精霊として把握された「唯一絶対の神」=キリスト=イエスが、神格に高まるために、マグダラのマリアとの「異教」的な交わりを必要とし、その子が、イエスの意志としての教会を受け継ぐとされているところにある。
 『Passion』は報道されているところから(引用)では、罪ある神官やユダヤ教の指導者たちの描き方が、現代においてユダヤ教への宗教的な対立を引き起こすとして批判を投げかけられ、スキャンダルを巻き起こした。
 映画というフィクションにおいて史実を描く事が現代の宗教的・政治的な力学によって、制限されることになったわけだ。よく知られた事実として、ハリウッドにおいては、34年代〜68年までヘイズ・コード と呼ばれる倫理規定が存在し、宗教・道徳・政治に関する表現がプロダクション側によってあらかじめ検閲され制限されていた。映画の表現の力が、恐れられていたということだ。


2. 作品のアレゴリー的読解

ダ・ヴィンチ・コード』は、、歴史的なアレゴリーから作品に外装するという事で解釈が可能であるということだけではなく、映画それ自体においてその美学的な技法であるアレゴリーを呼び出しているのである。

定義的に言えば、アレゴリーは、ある事物を直接的に表現するのではなく、他の事物によって暗示的に示す技法とされる。そして、人間存在の様態や権力の諸勢力や理念を擬人化した登場人物によって具体的に表現するという特徴を持つ。さらに、謎解き、裏切り、陰謀等々のテーマがそこに重ねられる。こうしたアレゴリーは古くは宗教的な寓意表現となって、教訓を示すものとして捕らえられた。時代的・様式的にバロックにおいてその頂点を迎える。現代におけるアレゴリー復権は、先駆的にヴァルター・ベンヤミンが、『ドイツバロック悲劇の根源』においてなしているが、ここではその成果を一般的に使用したいと考える。

上記のアレゴリーの説明は、そのまま『ダ・ヴィンチ・コード』という映画そのものの解説にはなっていないだろうか。映画に数々登場するアナグラムなどの文字の置き換えや隠された寓意の解釈の数々。また、ソニエールが率いる秘密結社と裏切りやイギリス人リーによる陰謀、そして、肉体的な極度の苦痛など、こうしたものは、バロック的なアレゴリーがその内実として持っていたものに他ならない。

バロック的様式においては、バロックという名の語源が、「歪んだ真珠」であるように、ルネサンスの神が創造し、人間を中心とした世界の表現という調和が崩れ、多中心的な理念の拮抗として世界が表現される。『ダ・ヴィンチ・コード』は、三位一体のカトリック的なキリスト教的真実と異教的な真実が対立拮抗する。カトリック的な世界に対立するのは、マグダラのマリアをイエスの教会の後継者としていだく、男性と女性の二つの中心の拮抗として描かれる世界である。唯一絶対の神が、世界の中心として君臨する世界ではない。カトリック的な世界を代表するオプス・ディの信徒も狂信的とも言えるシラスの苦行によって魂の浄化がつねに問われるものとして映画に登場する。つまり、彼は、信仰を絶対のものとして調和として実現することは許されず、絶えざる限界的な苦痛と苦行、そして、時には人を殺める殺人者として生きる事で信仰を全うし、神の救済を矛盾のなかで実現しようとする。神の光に照らされるには、理性の闇を限界のなかで克服するしかないのだ。

ジャン・レノ演じる捜査官とて、自分の捜査的な正当性は、操りと陰謀のなかで行われるものでしかない。こうしたなかで、自由の理念のアレゴリーとして登場しているのが、ソフィー・ヌヴーである。彼女は、トム・ハンクス演じるラングドンを救い出すところから登場しているという点のおいても自由の形象であるし、結果的に、宗教の根源性を問う存在であるという点においてもそうなのである。彼女は、信仰をカント的な意味において超越論的に「信仰とは何か」、と問える根源にまで到達するという意味においても理性の自由を駆使しており、自由のアレゴリーである。一方で、ラングドンは、閉所恐怖症という視野の狭さへの恐れをつねに抱いているが、謎解きと騎士としてソフィーを護る存在として描かれているが、それは、人間のアレゴリーであり、悟性のアレゴリーと考えることも出来よう。有限で、限定された存在でありながら、悟性を駆使し、謎を解き、ナイトとして節制のなかで、目的を達するという意味において、現代の人間のアレゴリーとは言えないだろうか。
 
3.歴史のアレゴリーとしての「宗教」

 では、この映画のどこがそれほどの不安をある政治体制に与えるのか。冒頭の北京市内の劇場関係者の言葉を思いだそう。「宗教が原因だ」。
 この言葉の意味は徹底的にリテラルに把握する必要がある。「宗教が原因だ」というのは、
この映画におけるその形式において「宗教」
のその取り扱いの仕方と人間の善の意志そのものの基礎においてカント的に考える必要がある。
この映画において、トム・ハンクス演じるラングドンが、ソフィーに尋ねる仕方を思いだそう。
 
彼は、ソフィーに「マグダラのマリアの子孫であり、キリストの子孫であったことをあかすのか」と聞く。そして、彼はこうも言っている。「歴史の真実を明かして信仰を破壊することに利用するのか、信仰を再生するのか。結局、何を信じるかだ」、と彼は言うのである。
カントの超越論的哲学において、宗教は、カッコに入れられ、その真実は結果において人間の欲望を善へと導くものだと捕らえ返される。
カントは宗教を例えば、「唯物論」的に解体しないが、だが、無前提に「肯定」もしない。
カントは、ここで、「理論的な信」と言うのだが、それは、批判にさらされたものの中に、「信」としての核が潜む事を明らかにしているのである。つまり、ラングドンが言うように「結局、何を信じるかだ。」
 この映画は、信仰を破壊しないが、信仰を肯定もせず、信仰の「信」に対する態度を宙づりにするのだ。それは、肉体を厳しく鞭打つことを要求するのでもなく、司祭の言葉を無批判に無前提に信じる事を要求するのでもなく、「信」の「信」の核を宙づりにし、ラングドンが、マグダラのマリアという自由の理念に跪くところで映画は終わるのである。
 それはまさに、カントが三批判書や『啓蒙とは何か』で語ってきた権威からの理性(悟性)の自律というテーマそのものなのだ。

この映画では、繰り返し語ってきたように、ダ・ヴィンチを扱っているにもかかわらず、理想的な人間としてのルネサンス的な調和が問題ではなく、宗教と自由と真理のあいだで揺れ動き、精神に陰影がついている人たちが問題になっている。
この映画のアレゴリーを歴史のアレゴリーとして見るとソフィーは、自由の女神の末裔として自由人の象徴であり、ジャン・レノは、アメリカの言いなりになる同盟国であり、オプス・ディの関係者たちはキリスト教原理主義とブッシュ・一派を暗示させるように見えはしないだろうか。そしてあの老人は、そうした原理主義を操る黒幕としての「イスラエルパレスチナや中東の役割を思いだそう)」や軍事産業などかも知れない。

そして、アメリカという国が、ヨーロッパからキリスト教という厄介なものだけではなく、まさにその建国の理念において自由を持っていた事、そして、フランスから自由の女神を贈られた事、すなわち、ニューヨークには、「異教徒」がしかけた9.11のテロの贈与以外に無限のものが贈与されているということを描いているのではなかったか。
最後にトム・ハンクスルーブルマグダラのマリアを思いながら跪いた時、あれは本当にアメリカの人たちに自由を記憶のなかで想起するように描いたのではないだろうか。

4.結論・・・「宗教が原因だ」

 これまで明らかにしてきたように『ダ・ヴィンチ・コード』においては、ある諸理念の対立と逃走の調停が問題になっている。すなわち、カトリックの狂信的な信者、マグダラのマリアを信奉する異教徒、信仰を否定し、キリストを預言者に格下げすることで歴史的な事実へと解体しようとする無神論者、そうした宗教を巡る対話の構造が問題となっている。これは、キリスト教とその他の宗教と無神論に置き換えても良いのだが、問題は、その構造そのものが開く、「信仰の宙づり」そのものが「トラウマの核」なのである。
 中国を指導する政党は、中国共産党であるが、この体制そのものが矛盾をはらんでいる。理論的に皮相な解釈をすれば、マルクスレーニン毛沢東主義において、プロレタリアートの実現と真理の実現を同一化することで歴史的な矛盾を止揚する真理を担う階級を組織する政党そのものの有り様がその問題を作り出すのである。
 
 歴史的なある状況下で真理を担う階級であったかも知れないが、それが、文化大革命の悲惨な状態から天安門事件にいたるまで、制度そのものを維持するために、国土を支配する階級として共産党が存在していること、それが、問題なのである。『ダ・ヴィンチ・コード』は、真理そのものが持っているトラウマ的な「核」を宙づりにするとすでに書いたように、この立場は、共産党の「真理」の次元をも宙づりにし、個人に対して、信じるべきものは「党」ではなく、個人の「理性」であることを教えるものであるからなのだ。映画はアレゴリーが形式として示すように、表面的には違う事を意味することを教育するものとしても機能するだろう。

 中国共産党にとって、この映画が継続して公開されることは難しい問題を突きつける可能性があった。それは、狂信的なカトリック教徒にとっての宗教的な真実と映画的なフィクションの取り違えという問題を超えて、歴史的な真理を担う階級としての中国共産党そのものの宙づりにしてしまう可能性があったのだ。カトリック教徒が映画を批判するためにキャンペーンを張り、一方で、民衆が映画を愛する時、その矛盾は大きなものとなったに違いない。人はまさに、「宗教が原因だ」と気づくかも知れなかったのだ。中国において、「宗教」として機能しているのは、個人を背後から指導する政党としての中国共産党に他ならないからだ。

 現在のアメリカがキリスト教原理主義に傾いているからと言ってもこの映画は上映中止されることはない。なぜなら、言論の自由表現の自由、そして、それを実現するものとしての大統領制と選挙が実施されるからだ。中国がこの映画の自由を受け入れる時、それは、共産党が自由選挙を受け入れる時になるだろう。当局が、『ダ・ヴィンチ・コード』を上映中止にしたのは、まさに、北京の劇場のコメントとして伝えるように「宗教が原因だ」からなのではないのか。すなわち、主体との関係において、宗教のように、政治の中心が機能しているからなのではなかろうか。
(2006.7.7)