ポストモダン経済と労働(1)

『フラット化する社会』とか、リチャード・フロリダの『クリエイティブ資本論』などで論じられているように、先進国と呼ばれる国のなかで決まったルーチンの事務処理的な仕事をしていたホワイトカラーが少なくなり、企画部門や調整やリスク管理のような高度なスキルと想像力と創造性が必要な職種が増えているという状況が本当ならばそれは日本においてどういうことが起こっているのかをみたい、という欲望で白書を見ていた。

格差社会といわれる社会は確かにリアリティがあって、労働配分率が下がっているという
現状もある。それがいったい何か、という問題がそれだ。『蟹工船』が流行ったりしているように、単純な素朴疎外論への後退を理論家たちが行ってはならないだろう。
例えば、日本の場合、50年代や60年代(〜90年代まで)は、労働経済白書にも分析されているように、労働生産性の向上と労働力の移動がパラレルに調和的に推移していた。すなわち、生産性の高い競争力の強い分野に、労働力が集約的に集められ、そして、高い労働配分率を維持することができたのである。すなわち、所得倍増計画などを思い出していただければいいが、日本の護送船団方式のもとでの銀行の金融政策や公共事業中心の財政政策が、確かに、日本の国民一般の所得を向上させた、という事実があったのだ。実際、日本の建設労働業界にいる人たちの割合は、先進国の中で最高水準にあって、フランスやアメリカの倍以上という数値もあるようだ。
道路族たちの仕事が国民の「ため」だった時代は、古くは田中角栄の頃からあったわけで、それは「正しく」言葉の正当な意味で、労働者たちの福祉と生活を向上させたのだ。

ところが2000年代になって労働力の移動は、生産性の高い部門へとなされるのではなく、より生産性の低い部門に向かって起こっていることが「労働経済白書」(p217 第3ー(3)-1図参照)で示されている。これは、実際に、格差社会や「ハケン労働」の増加で実感されていることを数値とグラフレベルで示したものではないだろうか。
有り体にいって、リストラされた人たちが、とりあえず、飲食店業をはじめとして、各種サービス業で仕事をしたり、言い方悪いんだけど、街中にあふれかえっているタクシーの運転手になってしまっている、という状況を示すものなのだろう。

これは、中長期的に見るならば、労働者の所得水準を下げることはもちろん、日本経済の競争力そのものにとっても大問題であって、企業の生産性の向上が、合理化とか、リストラとか、人的コストの削減としてしか、行われていない。すなわち、例えば、ITの導入が生産性の向上に繋がって、利益を生んで新しい雇用を創出している、というストーリーにはなっていない、ということだ。もっと言い換えれば、既存の技術の応用とか合理化はあっても、新機軸を打ち出して、競争力の強い分野が日本に登場した、とかという話ではない、ということだ。

格差社会について問題にした時、一方的に企業側を責める論調があって、それはそれで良いのだろうが、実際に生じていることを分析するのはまた違う視点が必要だ。
日本の経済的な停滞と凋落、あるいは、格差の広がりの原因は、日本が新しい21世紀型の世界経済の構造や資本主義社会の進化に追いついていないからだ、と言った方が正しいだろうということだ。すなわち、従来型の組合活動や賃上げ活動のような連帯も必要ならやればいいだろうが、たがしかし、そういうものでは、格差社会の広がりの圧力を押しとどめることは難しいということなのだ。あるいは、そうした旧来型の「労働運動」が易々とナショナリズムに転化し、人種差別的な排他主義に落ち込む可能性もあるといっておこう。すでに、老人のケアの人材などで導入が進められているように、安い海外の労働力への依存が、最悪の人種差別を作りだし、どこかの国のように、排他的な政策をますますとるような方向に向かっていくこともあり得るということだ。